二人で行った場所
時折、葉書が届く。
不定期に。差出人のない、葉書だ。
観光地の絵葉書で、内容は他愛ないことだ。湖面に薄氷が張っていただの、高山植物が逞しいだの、日差しがまぶしいだの、雲が淀んでいるだの。旅の感想のようなものが簡単につづられて、それで終わる。
筆跡に見覚えがあった。昔、ちらとだけ見た父の筆跡だ。
レイがほんの幼い頃に両親が離婚し、父とは会っていない。母は父の悪口ばかり言う。
父の存在する価値は、とにかく金だけは送ってくるということだ。淡泊で酷い男だったというけれど、律儀に養育費だけは送ってくる。
寄宿学校にまた、葉書が届く。どこだかの空がとても高いのだそうだ。抜けるような青空とはこのことだ、と。どこで見ても同じ空のはずなのに、ここの空はとりわけ高い気がすると……そんな意味のわからないことが書いてあった。山の写真だった。
それが最後の葉書になった。
最後の葉書を受け取って暫くして、母から連絡が入った。父が危篤で、最後に我が子に会いたいと言っているらしい。
あんなひどい男に会ってやる必要ないんだけど、と母は付け加えた。一応、あなたに報せるだけはしといてやらないと、こっちが悪い人みたいになるのが嫌だから。後はあなたの好きにしなさいと、母は言った。
レイは行かなかった。机の脇のコルクボードに父の連絡先のメモを張り付けて、そのままにした。
暫くして、母からまた連絡があった。父が死んだという。
レイは父の連絡先を眺めた。
親の死にまつわるアレコレは、大人たちが適当にやってくれた。
レイの日常は何も変らなかった。ただ、不定期な便りが来なくなったのだけが、微かな変化だった。
寄宿学校を終え、レイは母のいる家には帰らずに、一人暮らしを始めた。
引っ越しの荷物を片付けて。机の脇の壁にコルクボードを立てかけた。
一人住まいに慣れた頃、知らない人から大きな封筒が届いた。手紙が添えてあって、父のささやかな遺品だという。デスクの引き出しから出て来たので、送ることにした。お母さんにきいたら、直接こっちに送っていいと言われたので、と書いてあった。
紙袋が入っていた。
紙袋の中には見覚えのあるものが入っていた。
葉書だ。不定期に届くあの葉書が、束になって袋の中に入っていたのだ。
絵柄も。文面も。レイが記憶しているものと同じだった。違う点があるとすれば、葉書はどれも染みのない綺麗なもので、消印が押してない。書いたまま投函していない、葉書なのだ。
レイは引っ越した時にしまい込んだ箱を、引っ張り出した。そこには父から送られてきた葉書が入っているはずなのに、見当たらなかった。捨てた覚えはないのにと、あちこちを探したが、やはりない。
遺品の葉書を数える。自分が持っているはずのものと同じ枚数だった。
父は同じものを二枚書いていたんだろうか。葉書の端にあるインクの染みや、寄宿学校の住所の書き損じを線で消してあるところまでそっくりだ。記憶の中の葉書と同じものとしか思えない。
机の脇のコルクボードを眺める。この不可解な出来事をどう解釈したらいいか思いつかない。
レイは新しく手に入った葉書の束を机の引き出しにしまった。
眠れない。
忙しない日常の中で時折、レイは憔悴するほどに寝付けない夜がある。
不安なのではない。けれどじっとしていると心がざわついて眠れない、夜だ。
レイは薄暗がりで起きだして、狭い部屋の中でぼんやりとコルクボードを眺める。
あの葉書はなんだろう。もしも父の葉書が、時空を飛んでレイの手元から父の手元に戻ったのだとしたら、どうだろう。父が投函していないことになっていたら?
そんな、常識でない想像をしてみる。
ということは、寄宿学校にいたレイは、葉書を受け取っていないことになる。
でも自分は、葉書のことを覚えている。
不可解なことである。
机の引き出しから葉書の束を取り出した。受け取った順番は覚えている。受け取った日付は、昔の手帳に書きつけてある。「ハガキ」と走り書きしてあるのが、その日だ。
順番通りに並べて、古い手帳と見比べた。
やってみようか。一枚、実験してみてもいいかもしれない。
葉書の消印の場所は覚えている。いつも違う場所からで、旅行なんていいご身分だなと思っていたから。
レイは資金繰りの算段をして、荷造りをした。
海を見た。一枚目は初夏の海辺の街の消印なのだ。
葉書を受け取ってから、学校の図書室でガイドブックを借りたのを覚えている。てっきり、父はそこに住んでいるのだと勘違いしたのだ。だから、消印にあった町の項を熟読した。
文面を眺める。
海は灰色で、泳ぐ気持ちになれない。
でも不思議と残念じゃない。波の音を聞いていると、思い出に浸れる。
足の下で砂が波にさらわれていくのを、じっと楽しむのもいいものだ。
そんなことが書いてある。
レイは靴を脱いで波打ち際に立ち尽くす。久しぶりの感触だ。いつぶりか、記憶をたどるのも難しいくらいに遠い記憶だけれど、この感触が気に入って、大きな手が引っ張ってくるのに抵抗していつまでも立ち尽くしていたのだけは、覚えている。
気のすむまで砂を味わってから、町を歩く。
小さな郵便局の前で、葉書を眺めた。
文章をもう一度、読む。小さく声に出して……何度も何度も黙読した、見慣れた文面を読んで。それからポストに投函した。
旅を終えて自分の住まいに戻る。
三日経っても一週間経っても、寄宿学校から連絡はなかった。葉書が届いたよという連絡があると思ったのに。それか、転送してくれるかと思ったのに。
あの葉書はどこに行ったんだろう。もう手元には届かないんだろうか。失くしてしまったんだろうか。
残りの葉書を眺める。試すのは一枚きりでいい。もう旅は止めだ。
二枚目の葉書の日付が近づいた頃。レイはふと、古い葉書を入れていた箱を開けた。
そこに、海辺の街で投函した葉書が一枚、ひらりと落ちていた。黄ばんで、端がすり切れた格好で。消印が押してある。
レイはカレンダーを見た。
葉書は投函しなければいけないのだ。でなければ、受け取ることが出来ない。
荷造りをした。
休みの度に、色々な所へ出かけた。不思議と、手帳に書き留めた日付はレイが旅に出るのにうってつけの休日と重なっていた。
行ったことの無い場所が沢山あった。
高山植物は綺麗だった。小さな花は葉書の文面にある通りに、愛らしくて。薄い雲が通り過ぎると、ささやくように揺れた。
冬の湖面は美しかった。なんでわざわざ冬に来たんだろうと、レイも最初は後悔した。でも文面にある通り、人気のない凍った湖は、静謐で心に染みた。
南の土地は日差しがまぶしかった。帽子を持ってくればよかったと、文面にあった。だから、レイはちゃんと帽子を頭に載せて、宿を出た。
淀んだ曇り空だと書いてあった場所は、レイが行くとさわやかな秋晴れだった。晴れるとこんなに美しい場所なのに残念だったねと、葉書を見て笑った。
いつも、葉書を投函する前に声に出して読んだ。
とても優しい文章だった。まるで思い出を語り合うかのようだった。
そして最後の一枚にたどり着いた。
レイは文面を読んだ。
抜けるような青空とはこのことだ。
どこで見ても同じ空のはずなのに、ここの空はとりわけ高い気がする。
だのに背伸びをしたら手が届くように思えるのはなぜだろう。
空はどこにでも繋がっているんだと思うと、いつまでも手を伸ばしていたくなる。
そうしたら触れたい手を取れるんじゃないかと思えてしまう。
そんな空が、ここにはあるよ。
レイは空を振り仰いだ。
手を伸ばす。同じ空に触った。
今、この葉書を書いた人の触ったものに、触ったのだ。
葉書を投函した。旅は終わりだ。
消印の押してある見慣れた葉書の束を、コルクボードの下に置く。
不可解なことがあるものだ。自分の身に何が起こったのか、考えても全くわからない。
レイは新品の絵葉書を机に置いた。
最後の町で買ったものだ。
報せを貰ったのに行かなくてごめんなさい、と書いた。
本当はずっと会いたくて。誰がなんと言っても、好きでした。
あなたのことはよく覚えていないけれど。大好きでした。
いつも便りをありがとう。
レイはそこまで書いて、コルクボードを見た。
端のちぎれたメモがそこにピンでとめてある。
レイはその住所を葉書に書き写した。
新しい葉書はどこに届くのだろう。
不可解なことが起こるのか。それとも、素直に宛先に届くのか。
レイは初めて書いた返信を、ポストにそっと差し入れた。
サークル情報
サークル名:チューリップ庵
執筆者名:瑞穂 檀
URL(Twitter):@MayumiMizuho
一言アピール
読み切り短編やショートショートを書いています。たまにBLも書いています。