LetterFrom平壌

1980年代中期―

 飛行機を降りた彼は出迎えの民族服を着た少女から花束を受け取った。
「初の海外旅行が北朝鮮とは我ながらディープだな」
 彼は心の中でこう呟きながら苦笑した。
「皆さん、まず写真撮影をします」
 この旅行団の団長が言ったので、彼を含んだ一行はタラップを降りた場所で並んだ。前列に並んだ人々は横断幕を持っていた。
“日朝友好演劇人訪問団”
 彼はこの訪問団の一員なのであった。

 数か月前、彼のもとに一本の電話が入った。
俳優仲間からの旅行の誘いだった。
「……そこで君にも声を掛けたんだ。費用は一切、掛からないことだし参加してみないか?」
行き先は北朝鮮。演劇関係者による日朝友好訪問団が作られたのだが参加者が集まらず、無名俳優の彼のところにも話が来たのである。電話の主は平和運動等に熱心なことで有名な人物だった。
 彼の先輩格に当たる人物でもあり、ちょうど、その時期は仕事が入っていなかったため、
「いいですよ、参加しましょう」
と返事をした。
 こうして彼は、特に考えることもなく北朝鮮に旅立ったのである。
 
 日本から北朝鮮への直行便はない。そのため、いったん北京に出て、そこから北朝鮮行きの飛行機に乗り換える。距離的には近いのだが移動には時間が掛かる。
 だが、彼は飛行機に乗るのは高校の修学旅行以来なので、道中は珍しいことが多く退屈することはなかった。旅に出るのは久しぶりなので、やはり心は弾むのだった。

 記念撮影が終わると一行はバスに乗せられ、市内の名所を2、3ヶ所回って宿泊先のホテルに到着した。
 既に夕暮れ時だったため、さっそく大ホールでの歓迎晩餐会となった。
 一行が指定された席に着くと招請先の代表が開会辭を述べ、続いて日本側団体の挨拶となった。日本の大物俳優が挨拶をしている間、彼はさりげなく周囲見回して訪問団メンバーを確認した。反戦を訴える美人女優、平和運動に積極的な中堅俳優等、いかにもといった顔ぶれだった。もちろん例外もいた。こうした人々は自分同様、誘われて参加したのだろう。
 彼があれこれ思い巡らしている間にテーブルの上には珍しい料理が次々と運ばれて来た。
「これ、なんだろう?」
彼が呟くと
「神仙炉〈シンソンノ〉といいます、美味しいですよ」
と綺麗な日本語の回答が聞こえた。
 給仕をしている女性だった。
 彼女が去った後、
「ずいぶん日本語が上手いなぁ」
と再度呟くと隣にいた男性が
「日本から帰国した人でしょう」
と教えてくれた。
「それでは、両国人民の末永い友好を願って乾杯をしましょう」
 進行役の声が聞こえてきたので彼は目の前のグラスを手にした。いつの間に来たのか先程の女性が彼と周囲の人々のグラスにビールを注いでくれた。
「乾杯!」
 やっと食事にありつけた、と彼はさっそく箸を取ったのだった。

 翌朝。
「丹沢さん!」
 彼を呼ぶ声がノックの音と共に聞こえてきた。
「朝っぱら何なんだ!」
 ブツブツ言いながら部屋の扉を開けると昨日給仕をしてくれた女性がいた。
「皆さま、お待ちになっていらっしゃいます。至急、食堂にいらしていただけませんか」
「え、集合は10時じゃないですか?」
「いえ、朝食の時、ミーティングがあるのですよ」
「そうなんですか!すぐ行きます」
 こう答えてドアを閉めた彼は「修学旅行じゃあるまいし」と文句を言いながら身支度を整えた。彼は朝が弱いのだった。
 食堂に行き空いている席に座ると、団長は本日のスケジュールを発表し注意事項を述べた。寝ぼけ眼で頭がぼやけている彼の耳には当然、それらは入っていなかった。ただ出された朝食を黙々と食べるだけだった。
 訪問団は10時過ぎに宿所を出た。午前中は市内観光ということで、バスで名所旧跡を巡った。未だ頭がぼやけている彼は案内人の説明も耳に入らず、ただ一行に従うだけだった。
 昼食を済ませた後、ようやく彼の頭がはっきりとした。
 午後は演劇鑑賞だった。案内された劇場は立派だったが、上演作品は今一つだった。言葉も分からず~一応舞台脇には日本語字幕が出たが、内容も興味を引くようなものではなかった。それゆえ、上演中は居眠りをしていた。
 劇が終わると出演者たちとの交流パーティーが行われ、一行が宿所に着く頃には夜も更けていた。
 自室に戻った彼は、すぐにベッドに横たわった。大して動いた訳でもないのに疲れてしまったのだ。
「何かかったるい旅行だな」
 愚痴った彼は喉の渇きを覚えたのでルームサービスを取ろうと電話の受話器を手にした。
 その時、ノックの音が聞こえてきた。部屋のドアを開けると今朝の女性従業員が立っていた。
「飲み物をお持ちいたしました」
 彼が促すまま、部屋に入った彼女は窓際のテーブルにコーヒーと焼き菓子が入った小皿を置いた。小皿の上にはメモがあった。
“この部屋は盗聴されています”
 彼は彼女の顔を見た。すると彼女は笑顔でさっとメモをポケットに入れて
「では、おやすみなさいませ」
と言って出て行った。
―盗聴‥か。
彼はこの国が社会主義国であることを再認識したのだった。

 翌朝も彼は昨日の彼女(自分の部屋を担当しているようだ)に起こされ、昨日と同じような一日を繰り返した。
 この旅行中は毎日、このパターンだった。そのため、担当の女性と親しくなり、たわいない会話を交わすようになった。これは、退屈なこの旅の中での彼の密かな楽しみとなった。
 楽しいとは言い難いこの旅も終わる時が来た。帰国前日、彼はホテルの売店で日本製の缶飲料を大量に購入した〜何故か売店の飲食物は日本製しかなかった。
 これを抱えて彼はフロントを訪ね、例の女性従業員に渡した。
「その間、お世話になりました。これ皆さんで召し上がって下さい」
 彼女は、初めは辞退したが
「ありがとうございます、従業員皆と頂きます」
と受け取ってくれた。
 最終日、いつものように彼女が呼びに来たのでドアを開けると手に何かを持っていた。彼は彼女を部屋に通した。
 彼女は窓際のテーブルに手にしたものを置いた。一番上には畳まれた封書があり、メモがあった。
“日本に帰ったらこれを投函して頂けませんか。お願い致します”
 彼は頷くと彼女は素早くメモをポケットに入れた。そして
「昨日はご馳走様でした。これは従業員からのささやか御礼です」
と言った。
「ありがとうございます。大切にします」
 彼が応えると彼女は一礼して出て行った。
 彼女が出て行くと彼はまず封筒を、貴重品を入れる胴巻き風のポケットにしっかりと入れた後、その下の物を見た。ホテルのレターセットと薄い写真集だった。これらは旅行鞄に入れた後、彼も部屋を出て行った。
 日本の空港に着くと彼はリムジンバスに乗り駅に向かった。車中で彼は胴巻きポケットから預かった封書を取り出した。少しくたびれた封筒のあて先は“長谷川太蔵様”となっていた。時代劇を思わせる厳めしい名前だった。
 停留所に着くと彼は近くの郵便局に行き、カウンター脇の台の上にあったセロテープで封筒を補強しポストに投函した。

 旅行から帰って間もなく、彼のもとに公安警察がやってきて、北朝鮮旅行中のことについてあれこれ訊ねた。問われるまま正直に答えたが、封書については敢えて何も言わなかった。
 それから数日後、アパートの大家の奥さんから
「丹沢さん、お見合いの話が来てるようよ。この間、興信所の人があなたのことをあれこれ聞いたわ」
と聞かされた。
 彼はすぐに実家に電話を掛けて問い合わせをしたが見合いの話などなかった。また、その後もそうした話は来なかった。
 こうしたことが続いたせいか、暫くの間、彼は誰かに付けられているように感じた。

 俳優としては全く芽が出ない彼は見切りを付け、就職し会社員となった。
 その後、演劇鑑賞会で知り合った女性と結婚し、一男一女の父親となった。平凡だが穏やかな日々に彼は満足した。
 歳月は流れ、21世紀になった。
 新世紀を迎えて間もなく、日本社会をひっくり返すよな事件が起こった。
 北朝鮮が日本人を拉致したことを認め、その被害者たちが数十年ぶりに日本に帰って来たのである。
 と同時に自分の家族も拉致されたのではないかという人々が現れ、マスコミを賑わせた。
 そんなある日、テレビから聞き覚えのある名前が聞こえてきた。
 食堂で昼食中だった彼は、テレビを見た。
「……長谷川太蔵さんの長女・桜子さんは西ドイツにいったまま行方不明となり、その後、平壌にいるという本人からの直筆の手紙が写真と共に届きました……」
 北朝鮮拉致事件を特集した番組だった。家族が拉致されたのではないかと思われる人々が出演して、それぞれの事情について語っていた。
 画面の中の長谷川氏は大きく引き伸ばされた女性の写真を手に持っていた。
「あっ」
 彼は小声で悲鳴を上げた。平壌のホテルにいた女性だった。
「当時、娘は客室乗務員として働き、仕事で西ドイツに行ったまま帰ってきませんでした」
 初老の長谷川氏は悲痛な声で話していた。
―彼女は日本人だったのか…。
 彼の脳裏に若き日の平壌での出来事がよみがえった。
髪を後でまとめ、きれいな日本語を使い、てきぱきとした応対は、いかにも有能な客室乗務員らしかった。
 彼は長谷川氏に会うべきなのだろうかと考えたが、今はやめることにした。北から帰った時のことが思い出されたからである。自分はともかく家族に何かあってはと考えたためだった。

 それから更に月日は流れた。
 繁華街を歩いていると、
「拉致被害者救出のための署名にご協力ください」
という声が聞こえてきた。
 彼は署名をしてカンパ箱に千円札を入れると側に貼られたポスターを見た。
“特定失踪者の方々”という見出しの下に多くの小さな顔写真があった。その中には「長谷川桜子」の名前と顔もあった。
 若き日の彼女の写真を見ながら彼は、その間の歳月を思った。自分同様、桜子も相応の年齢になったことだろう。無事でいるだろうか。どうか、一日も早く家族のもとへ帰れるようになって欲しい。
 彼は、こう願わずにはいられなかった。

サークル情報

サークル名:鶏林書笈
執筆者名:高麗楼
URL(Twitter):@keirin_syokyu

一言アピール
朝鮮半島の歴史と古典文学をもとにした物語を書いています。だけど、今回のお話は現代ものです。

かんたん感想ボタン

この作品の感想で一番多いのはしんみり…です!
この作品を読んでどう感じたか押してね♡ 「よいお手紙だった」と思ったら「受取完了!」でお願いします!
  • しんみり… 
  • 受取完了! 
  • 怖い… 
  • 切ない 
  • 胸熱! 
  • ゾクゾク 
  • 尊い… 
  • エモい~~ 
  • この本が欲しい! 
  • そう来たか 
  • ロマンチック 
  • しみじみ 
  • かわゆい! 
  • 泣ける 
  • うきうき♡ 
  • ドキドキ 
  • ほのぼの 
  • 感動! 
  • 笑った 
  • 楽しい☆ 
  • キュン♡ 
  • ほっこり 
  • ごちそうさまでした 

LetterFrom平壌” に対して3件のコメントがあります。

  1. 下里亜紀子 より:

    鶏林書笈さまにしか書けない話だと思います。今後の作品も期待しています。でもこういうお話を書かないで済むようになるのが一番だとも思います。(無理でしょうが)

    1. 鶏林書笈 より:

      ご感想ありがとうございます。拉致被害者、特定失踪者の方々が帰国する日まで自分なりに出来ることをしていきます。

  2. 草波春香 より:

    拉致被害者のご家族もご高齢の方や他界された方もいらっしゃるので早く被害者の方々が帰国
    できることを祈らずにはいられない作品でした。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください