波が来たりて

 私の故郷は坂の多い海辺の街だった。
 夏になると海水浴場に観光客が押し寄せて来て、海の家を開いていた母方の叔父さんは、夏になると上機嫌になり、毎年私にプレゼントをくれた。最後にもらったのは、白地に赤い水玉模様のワンピース。首元についたフリルをいじり続けていたら、夏の終わりに取れてしまい、直すこともないまま押し入れの奥に仕舞われた。それきり一度も着ていない。ふとしたときに思い出すばかりでは捨てる決心もできない。海辺の街で暮らした記憶もまた同様に、捨てることができなかった。
 中学二年生になる頃、父の仕事の都合で海の見えない盆地の街へ引っ越すことになった。その街は空が狭く、朝は遅刻してやって来て、夕暮れは早々に私を帰路へ急き立てた。視界には常に山稜があり、麓には背の高い杉の深い森が広がっていた。用もなく森に入ってはいけないと、先生も同級生も、アパートの転居者に興味津々な近所の老婦人たちも口酸っぱく言ってくれた。
 森よりも奥の暗がりで、地面は勾配をつけていた。丘が連なり、やがて山渓へと繋がる。冬になれば緑は薄れ、灰色の枝と土塊が姿を表す。森には人の掌握しきれない自然が繁茂していた。

 引っ越した年の秋のある日、私は母に茶封筒を渡された。宛先は私の名前であり、送り主は「石井あきら」とあった。知ってる人かと母に問われ、曖昧に頷いた。その名にはかすかな聞き覚えがある程度だった。
 封筒の中身は、八行ほどの縦書きの便箋だった。余白にはお寺と大仏が描かれていて、そのそばをモミジの葉が二枚、仲良く舞っていた。手書き風の罫線の合間につづられた線の細い文字はどの行も、そちらに流れがついているかのように、末尾に向けてわずかに右に逸れていた。

 お久しぶりです。お元気ですか。

 そのあいさつから始まる便箋には、前の中学校を過ごしていた私の姿が、石井さんの目線で書き描かれていた。
 石井さんは女子だった。「あきら」という名が女子としては新鮮であり、逆にそれ以外の印象は薄かった。文章を見る限り言葉遣いはとても丁寧だったけれど、書きつづられている私への思慕は、私の息を詰まらせた。石井さんは私のことが好きだったらしく、私は全く知らなかった。
 胸騒ぎはしたものの、あまりに石井さんを憶えていないので、申し訳ないという思いの方が強かった。石井さんの「好き」の文字は、沖を悠々と飛び交うカモメたちのように、私から遠く、触れがたいものに思えた。
 後日、私は街の文房具店で便箋を買った。余白にはイガにくるまれた栗が点粒の目の下で口をくにゃっとさせて笑っていた。絵柄を細かく思い出せるのは、それが最初の手紙であり、私がそれなりに緊張していたからだと思う。
 
 
 
「海の見える景色が懐かしいです。ここはどこもかしこも山ばかりです。山ということは土ということで、視界の半分以上を常に土に覆われているというのは、半分土葬されているのと似たようなものです。これから冬がやってきます。厳しい寒さだと脅されています。もしも次に書くときは、海のことを書いてくださると嬉しいです。私が寒さを耐え抜いていたら、お返事を書きたいと存じます」

「海に見られたクジラの話、とても興味深いです。たしかに太平洋沿いですので、クジラが来ても不思議はないですが、私がいるときは一度も来なかったかと思います。写真を添えていただきありがとうございました。確かにぼやけていますけれど、とても大きな生き物であることは十分にわかります。
 こちらは冬になりました。学校には教室ごとにストーブがありますが、つけたところで足先はとても温めきれません。なんとか膝掛けをして授業をやり過ごしています」

「何度もやりとりをしていて、今さらいうのも気が引けるのですが、実は私は石井さんのことをあまり憶えていないのです。やはり会話というのは共通のできごとがあってこそ盛り上がるというもので、同じ記憶がないものですから、どうしても、当たり障りのないことを書こうとしてしまいます。
 お手紙はとても嬉しいし、お気持ちもとても嬉しいです。しかし、ろくに返事もできないままやり取りを続けるのは、お互いつらいものではないでしょうか」
 
「先に言っておきますと、返事を出していないのにお手紙が毎週届くというのは、決して良い気持ちではありません。それなのにお返事を書くのは、貴方の手紙の物量と文章の熱量にあてられたからでしょう。少し怖くもなりました。切手代も馬鹿になりませんし、おちついて、ゆっくり続けていきましょう。
 私も前回は厳しいことを言いすぎました。もしもこのお手紙のような関係が、長い間続くようでしたらいいですね」
 
「文語調と言いますか、この丁寧な口調は、そろそろやめてみませんか? このようなことになったのは、石井さんのことがよくわかっていなかったために、始まりをこの口調にしてしまったからでしょう。この手紙を書いているときだけ別の人になっているようで、それはそれで楽しいのですが、できればもう少しやわらかくしてみたいなと思うのです。
 というわけで、これからはもっと軽い言葉づかいにしよう。私も気をつける。
 もう春だね。教室が変わると、私はいつもちょっと悲しい。なんでだか、わからないけど」
 
 手紙が終わったのはいつ頃だっただろう。書いた手紙の内容も、今となってはいくつかしか思い出せない。
 高校生になってから、携帯電話を買ってもらえた。私だけの電話番号も、メールアドレスもあったのに、それらを石井さんに伝えることはなかった。
 
 
 
 高校生の私は、夜更けに歩くことを楽しんでいた。勉強に疲れ、携帯電話もパソコンも見たくないときに、両親が寝息を立てているのを確認してから、月夜の下を出歩いた。ひとまずは窓の外から見えるコンビニまでだ。そこから後は、気の鎮まるまで歩いたり、ガードレールに腰掛けたりしていた。
 その日、私は明かりに誘われるようにコンビニへと向かい、小さなチョコを買った。口の中でチョコを溶かしながら歩き回り、川縁の丁字路を折れたところで水の跳ねる音を聞いた。穏やかに流れる川の中に人がいた。厄介ごとにならないように無視をしたかったけれど、月の光の加減で、その人がクラスメイトだとわかると、私の恐怖心はむしろ私の背中を押した。
 その人は手に袋を持ち、「何か」を川に向けて放っていた。月光を受けて「何か」は青く光りながら川をゆっくり流れていった。私が草を踏むと、その人は逃げようとした。私は彼女の名前を叫び、そのとき初めて、自分が怒っていることに気づいた。私は勢いづいたままその人の腕をつかんだ。とても細い二の腕に驚きながら、暴れるその人を抑え込んだ。その人はやがてうなだれ、私が放すと、膝を抱えてうずくまった。
「誰にも見られずに捨てたかった」
 かすれた細い声だった。その人の長い髪先は川に浸り、尾鰭のように揺らめいていた。
「どうして止めたの」
 その人は私を睨んだ。両方の瞳に月が灯り、どちらも涙に濡れていた。
「海が汚れるから」
 私の答えからしばらくして、その人は笑った。こぼれ落ちていく声の塊は、小さな獣が月に向かって吠えているかのようだった。
「あんたは海から来たんだものな」
 別れ際に、その人は私に向かって言い放った。吐き捨てるようだったけれど、悪い気はしなかった。
 その人が流していたものも、涙の理由も、私にはわからなかった。その人とは学校で、一回くらい目が合った気がするけれど、言葉は交わさなかった。名前さえも忘れてしまっている。その代わり、それからその人の姿を一度も川で見なかったことは、確かだったはずだ。
 
 
 
 父の仕事は、定年になったことで終わった。両親は海辺の街に戻ることになり、私は進学が決まった都心の大学近くの街へと引っ越すことになった。
 春の、引越しの前日の昼下がりに、私はまた散歩をしていた。街のそこかしこで桜が咲き、登下校で見慣れた道を薄紅に飾り続けていた。
 歩いていると、記憶が気ままに蘇ってきた。細々と習い続けていた書道のことや、続かなかった学習塾のことも思った。部活動ではバドミントンを選んだ。卒業証書も受け取った。履歴書に書ける、私の歴史だった。
 緩やかな丘の上にある公園に着いて、ベンチに腰掛けながら、街を振り返った。山々はいつもと変わらず視界中に広がっていた。引っ越してきた当初は面食らっていた土塊も、今では普通の景色になっていた。これで見納めかと思うと切なくもあり、私はしばらく稜線を眺め続けていた。
 陽が暮れ始めた頃、不意に強い風が吹いた。勢いのある春の風に、たまらず目を閉じた。鼻の先に砂を感じた。ほこりの舞い落ちるのを待って、私はゆっくりと目を開いた。
 遠い山の麓の森や、街中にある庭木、街路樹、川の堤に並ぶ防風林。全ての木々が風に揺れていた。公園や丘に広がる草むらで、草葉の一枚一枚が風に煽られ、幾重にも影の筋を描いていた。波打っている。言葉が脳裏に浮かび、風に頬を撫でられて、冷たさを感じた。どうして泣いているのか、自分のことなのにわからなかった。
 忘れかけていた、坂の多い街の光景がまぶたの裏側に浮かんだ。そこで暮らした日々を思い出した。石井さん、彼女の手紙を私はどこに仕舞っただろうか。衝動に駆られた。彼女が書いた海の話を読みたかった。私が置いてきてしまったもの。いくら走っても決して追いつけない景色。山から吹き下ろすこの風はきっと、海辺の街にも吹いている。
 捨てようと思っていた古い勉強道具の山の中に、その手紙の束はあった。少しかび臭いその紙の便箋に目を通し、記憶に紛れてしまった磯の香りを手繰り寄せた。やがて私は、買ってきたばかりの便箋を広げた。。

 お久しぶりです。お元気ですか。

 それからは、筆の流れるままに任せた。

サークル情報

サークル名:鳴草庵
執筆者名:雲鳴遊乃実
URL(Twitter):@teacupboy1

一言アピール
青から最も遠い、成長の物語ーー新刊『死にたがりの修羅』準新刊『時をかける俺以外』他既刊、よろしくお願いします!

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