大学生とラブレター
「動くな」
穏やかな昼下がり、大学ゼミ室で卒論の資料を検索していた俺の背中に、固いものが触れる。
振り返ることは、できない。この固さを俺は知っている。この――冷たい金属の感触を。
「ゆっくり両手を挙げろ。いいか、変な気を起こすなよ」
息を呑む。キーボードを叩いていた手を、頭上へ。もっと画面が暗ければ、反射で相手の顔が見えただろうに。
「何が目的だ」
「お前に質問権はない。質問するのはこちらだ」
聴き覚えのある声。ああ、俺は、こいつを知っている。
くそ、なんで俺なんだ。善良な大学生を捕まえて、一体何をしようと。
かさ。
頭上に挙げた手のひらに、何かが触れる。なんだこれ。紙?
「喜べ大島、ラブレターだ」
「マジかよ!!!」
コンマ5秒で振り返って手元を見た。動くなとかどうでもいい。ラブレターという奇跡の前で、そんな指示に力があるはずもない。後ろに立っていたのは同期で悪友の世田で、持っていたのは缶コーヒーだったのだから。
まあ、あれだ。よくあるノリだった。
「がっつきすぎじゃないか?」
「うるせぇ、こちとら彼女いない歴イコール年齢だぞ舐めんな」
ああ、とか憐れみの声が聴こえたが無視だ無視。
それよりこれ、は。
「なあ」
「どうした」
「なにこれ」
わかりきった質問を世田にぶつける。
左上のカドが綴じられた、この紙の束は。
「見りゃわかるだろ、質問紙だ」
「なんでだよおおおお」
そりゃあ確かに「質問するのはこちらだ」とか言ってたけども。
見れば、世田はニヤついた顔でこちらを見ていた。
こいつ、面白がりやがって。
「安心しろよ、女子からだから」
「何を安心しろと……?」
大学生の被服行動についてのアンケート、と銘打たれた、なんの色気もない、厚みだけはやたらある紙束。
嗚呼、この厚みが愛の重さだったなら。
「あー最悪だ。やる気なくした。卒論とかもうやってらんね」
「元々やる気ないだろお前は」
「いーや、お前のせいだね。あーもう俺帰ろっかな」
女子の質問紙を下敷きに、デスクに半ばヤケ気味に突っ伏す。厚みがいい仕事してくれるかと期待したけど、残念ながらそんなこともなかった。
なんか暗いな、と思ったら、先程までついていた検索画面は消え、いつの間にかスリープモードになっていた。
「卒論はいいのか」
「……なんとかなるだろ」
未だ本文は真っ白だ。とはいえまだ半年もあるのだし、そんなに焦ることもないだろう。
「提出締切の前日まで完成してない方に唐揚げ定食」
「賭けるな」
「ミニうどんを添えて」
「フランス料理っぽく言うな」
実態はただの食べ盛りのわんぱく学生メニューのくせに。
「とにかく、それ明日までには回答しておいてくれ。じゃないと俺が責められる」
「へーへー」
眠りについていたパソコンを起こして、開いていた画面を閉じていく。と、視界を新たな紙が遮る。紙はもういい。
今度はなんだよと振り返ろうとして、その紙と固い感触が頭に乗せられる。
「またラブレターか?」
「ああ。存分に喜べ。それは俺からだ」
「女子でもない奴からのラブレターはただの嫌がらせでしかねぇよ……」
お疲れ、と僅かばかりの労いを投げ、世田はゼミ室を出て行った。確か、教養科目の講義取ってたんだったか。世田といい朔といい、単位足りてるのによくやるよ、と感心する。
封じられた自由を取り戻すため、絶妙なバランスで乗っていた頭上の楔に手を伸ばす。さながら神殿で封印されていたラスボスのように。
手のひらに伝わるのは、円筒状の冷たい感触。
「……自分用じゃなかったのかよ」
マメというかなんというか。ブラック、飲めないんだけどなぁ。表面に描かれたオッサンの横顔見上げて、背もたれに身を預ける。その拍子に滑り落ちた紙に、俺はもう一度面食らう。
表面に書かれたタイトルは、今まさに俺が検索していたもの。求めていた先行研究の論文だった。そしてその表面には、やる、とだけ書かれた付箋。
自分の先行研究の資料を探していて、たまたま見つけたんだろうけど。
軽く伸びをして、姿勢を正す。
「もう少しだけやるか」
缶コーヒーのプルタブを起こすと、ぷし、と小気味よい音がした。
夏休みまで、あと1か月。
サークル情報
サークル名:緋寒桜創弌社
執筆者名:笠井 玖郎
URL(Twitter):@tshi_e
一言アピール
リアル志向からSFまで、様々なジャンルを扱っています。
SF(すこしふしぎ)が好きな相方と活動中。
本作は拙著『無色』の主人公のスピンオフ的前日譚(日常話)になります。
ゆるい大学生のノリと、シリアスな空気、重めの話がお好きな方はぜひどうぞ。