猫
ニャーン
ベッドの下で私を呼ぶ声がする。
「なぁに? 九郎さん」
布団から頭だけ出してベッドの縁に寄ると、彼はこちらを見上げて、構って欲しそうに鳴いた。
ニャ、
「お腹空いたの?」
ニャ、
「お布団入りたいの?」
ニャ、
構って欲しいだけみたいだった。12月のシンと冷えた朝の冷気のなか、黒い毛皮を纏った彼は、私を布団の外に出そうと呼ぶ。
ニャ、
「もうちょっと寝かせてくれない?」
私が動かないと何も言わなくなって、ジッとこちらを見上げだした。
不意に飽きたのか、後ろを向いて何処かへ行こうとする。
その背中に手を伸ばして、少しだけ嫌がる彼を布団の中へ引きずり込んだ。抱き締めると毛皮の表面がヒンヤリしていた。でもお腹は温かい。
黄色い猫目と目が合う。頬を寄せて、まだ少し嫌がる彼を丸くさせる。
「今日はお仕事、お休みだから、昼まで寝ましょ、くっついて、このまま」
温かい彼を胸に抱いて、唇の近くでパタパタと動く耳にキスをする。
「九郎さん」
ギュウ、
私は穏やかな眠りの中に落ちていった。
・
眠りの中で、もう何度も見た夢を見た。「四郎」と私が呼ぶと、彼は振り向いて手を振る。でもまた背中を向けて一歩先に進んでしまう。もう一度「四郎」と呼ぶと、また振り返って手を振ってくれる。なのに、すぐ先へ進もうとする。
あなたは先に行ってしまう。私を置いて行ってしまう。
「四郎」
名前を呼んでも、いつか振り向いてくれなくなって、私は目を覚ます。
手の中にはまだ温もりがあって、でも九郎さんの姿はなかった。
布団から頭を出して探すと、窓際のカーペットの上で日向ぼっこをしていた。
昼前まで寝た身体を起こして。着替える前に彼の食事を用意する。
袋を取ると、気が付いたのか私の足元にすり寄ってきた。皿に適量取って、勢いよくガッつく彼の背中を撫でる。上にピンと立った尻尾の毛先まで手でなぞると、一度だけこちらを振り向いた。でもすぐに食事を再開した。
「・・・・・」
私は黙って彼を見守る。真っ黒の彼の毛皮は、太陽を浴びて柔らかく温かい。
「四郎は帰ってこないね、九郎さん」
話し掛けても九郎さんは、耳を後ろに倒すだけで返事はくれない。
四郎が帰ってこない理由は分かっている。あの人は、死んでしまったから。
去年の冬、交通事故で私の最愛の人は死んでしまった。突然車道に飛び出した酔っ払いを避けるために、四郎はガードレールに追突する事を選んだ。
事故直後はまだ息があったらしい。でもその日は、雪で道路が混雑していて、救急車が遅れた。
「にゃ~」
私が猫の鳴き真似をすると、九郎さんは食事から離れて、何処かへ行こうとした。
私は離れていく彼の背中に触れながら、またもう一度鳴き真似をした。
「なぉーん」
四郎とは、高校からの付き合いだった。同じ大学に通って、就職を機に同棲を始めた。リビングにはまだ、卒業旅行で広島の尾道に行った時の写真が飾ってある。でも、あれ以上新しい写真はない。あの人は帰ってこないから。
こんな寒い冬の日には、外の寒さに耐えかねて、ヒョッコリ帰ってくるんじゃないのかと思ってしまう。
もし帰ってきて、自分の茶碗が九郎さんの給仕皿になっている事を知ったら、あなたは何て思うかな・・・。
四郎の事を思い出すと、途端にさみしさがこみ上げる。私は彼の部屋に行って、彼のベッドに被さった。
去年の冬からそのままになっている部屋は、まだあの人の帰りを待っている。
寂しさを少しでも埋め合わせようと、衣装タンスを開けて、彼の服をベッドの上にばらまいて倒れ込む。
あの人に抱き締められている気がする。四郎の匂いがする。
布団とシャツにくるまって午後の寂しいひとときを過ごす。
静かに、目元が濡れるのを感じた。
ガチャン!
その時だった。閉めたはずの部屋の扉が開いた。
誰かが、扉を開く。
静かな足音で近寄ってきたのは九郎さんだった。
ドアノブに飛びかかって、上手いこと回して扉を開いたようだ。
九郎さんはヒクヒクと鼻先でベッドの匂いを確認すると、私の胸の上に飛び乗ってきた。そのまま香箱座りになって、私の上で喉を鳴らす。
ゴロゴロ、ゴロゴロ、
「慰めてくれるの?」
目を閉じて幸せそうな彼の顔を見ていると、とても癒やされる。
優しく頭を撫でると。少しだけ目を開いて反応があった。〝もっと撫でろ〟なのか、それとも〝もういいよ〟なのか、どちらだろう。
四郎に包まれながら、九郎さんを撫でて私は目を閉じた。
・
去年の冬の終わり、雪も溶け、そろそろ春一番が吹こうかと言う頃、私は車を走らせていた。
四郎が死んでしまって、この世に未練も無くなった私は、事故の修理から帰ってきた四郎の車を駆って、私の最愛の人が死んでしまった場所へ向かっていた。
同じ場所で、同じ車で、同じ風に死んだら、あなたと、同じ所へ行ける気がしたから。
時速は、80㎞を超えようとしていた。緩いカーブの先にあったのは、歪んだガードレールと、補修テープで巻かれた街路樹だった。酷い事故だったのだと改めて悟った。きっとすごく痛かったよね、四郎・・・。
ハンドルを握る手が意志をもって、目指す先に向いた。アクセルは自然と離していた。けれど70㎞台の速度はすぐには衰えない。窓を開けて、風切り音に身を任せる。
風に乗って梅の匂いがした。冬が終わる、彼が死んだ冬が終わる。私も、もう終わらないと・・。
目前に迫ったイチョウの街路樹は、衝突の衝撃で折れてしまいそうだった。その事だけ、申し訳ないなと、勝手に思っていた。
やけに大きく、エンジン音と風切り音が聞こえ、街路樹が迫るにつれ、涙が溢れてきた。
あなたと、もっと幸せに生きたかったよ、四郎。
ヒュ、
何かが視界を掠めた。
もうブレーキも間に合わない領域に入ったと、感覚的に思った瞬間、街路樹の足元で何か動くものを見た。
咄嗟に私の体が反応して、ブレーキを強く踏んでいた。瞬間的に〝しまった〟と思う。踏んでしまった、ブレーキを。これじゃ失敗だ。
キキキィィィッィ!
もう間に合わないと思ったのに、案外車は街路樹の寸前で止まって、私の自殺は事故未遂で終わった。
[ピピ、]
強烈な減速で前屈みに下がった私の頭に、電子音が降ってきた。
肩に食い込むシートベルトを戻して頭を上げると、電子音に続けて音声が流れる。
[急ブレーキを感知しました。録画を保存します]
合成音のナレーションは、バックミラーの裏に取り付けられた、ドライブレコーダーのものだった。
四郎がつけたものだろう。
あ、・・・ひょっとして、四郎の事故も録画されているんじゃ?
私はドライブレコーダーを外して、手元で再生を始めた。ちゃんとそれは残っていた。
事故の前の彼は、車のオーディオから流れる音楽を口ずさみながら、安全に運転していた。
彼の最後の声を聞く。
歌が二番に差し掛かる頃、緩いカーブが現れた。まだ彼は、自分の運命に気付かない。反対車線から人が突然飛び出すまで、四郎の日常は壊れなかった。
歌の途中、〝あ〟と言う大きな声が日常を割った。瞬時にドライブレコーダーの画像が振れ、車の向きが変わる。突然飛び出した人影を避け、車は一直線に、ガードレールと街路樹へ向かう。
避けられない運命が四郎に衝突するのを、映像は克明に記録していた。
ドシン!
衝突の瞬間、画像の端に四郎の投げ出された腕が一瞬映った。そして、街路樹に積もっていた雪が一気に降りそそぎ、ドライブレコーダーの前面を遮る。
無音。
暫くは何の音もしなかった。しかし〝バタン〟と、車のドアが開く音がした。四郎はまだ生きていたのだ。
ザ、ザ、ザ、と雪の中を歩く音がする。
ドライブレコーダーの前面の雪が払われ、四郎の顔が現れた。
「・・・・・」
何事か言おうとしたのか、それでも音になる前に四郎は苦悶の表情を浮かべた。骨を何本も折っている筈だった、まともに喋れる訳がない。それでも四郎は、できるだけ大丈夫だよと言うように顔を和ませ、一度だけ頷いた。
私に向けられたものだと、私は確信した。この映像は、彼が私に残した最後のビデオレターだ。
やがて四郎は街路樹に背中を任せ、力尽きるまでこちらを見ていた。
私は涙が溢れて止まらなかった。すぐに車から降り、街路樹に縋り付きに行った。彼が最後を迎えた場所を、抱き締めに行った。
ああ、あなたは死んでしまった。確かにこの場所で死んでしまった。私もどうか、・・・連れて行ってよ四郎。
泣き叫ぶ私の足元で、小さな黒い影が、小鳥のような鳴き声で鳴く。
ミャー、
ミャー、
子猫だった。まだ目も開いていない、産まれたての黒い子猫が足元で鳴いていた。
私の自殺を失敗させた、動くものの正体だった。
ミャー、
拾い上げた温かな毛玉は、両手で包み込める大きさしかなくて、私が巻き添えで死なせる所だった命は、必死に生きたいと鳴いていた。
「あなたは、生きたいの?」
子猫は私の手の温かさに縋り付こうと、必死に小さな爪を立てる。
私は、四郎の頷きに応えるように子猫に頷いた。
「そうだよね、生きたいよね」
私は彼を抱いて、死ぬことを諦めた。
・
目が覚めた。いつの間にか寝ていたようだ。
胸の上の九郎さんは私が起きた事に気が付いて、居心地が悪くなったのか、飛び起きて床に着地した。
「ぐぇ」
踏み切りに使われたお腹が結構痛い。内臓にくる重さだ。
そのまま部屋を出ていこうとする九郎さんに声を掛けた。
「四郎」
彼は立ち止まって、一度だけ振り向いて、こちらをジッと見た。でも何も言わないで、すぐに部屋を出て行った。
「そんな訳ないよね」
窓の外を見ると、白い雲が一面、空を覆っていた。彼と別れて最初の冬に、ようやく雪の気配がした。
サークル情報
サークル名:緋寒桜創弌社
執筆者名:賀来誠
URL:http://underroot.starfree.jp/index.html
一言アピール
リアル志向からSFまで手広くやっています。リアリティを追求した作風を目指しています。
手隙の戯れに細々と続けていた趣味なのに、相方にのこのこと引き出され世間様の水を呑むことになりました。箱庭的な世界観にどっぷり浸って読んでいただけると幸いです。
純文学好きな相方とコンビでやってます。そちらもよろしく。