海に手紙を出すならば
わたしがあの人の音楽を弾くようになって、それなりが経った。
うまくなった気はしない。よいものかもわからない。ただ手応えのないまま闇雲にめったやたらに続け続けて。
「月にむかってどこまでも飛ぶ虫みたいだな」
いつも、そう思う。
手紙を書きたかった。
聞きたいことは溢れんばかりにある。
あの曲のコード進行はどんなつもりで作ったのか。
あの歌詞の意味。
音源になってないあの曲のゆくえ。
次のライブを約束していたのに、どうしていなくなってしまったのか。
けれども、いくら送っても返るあてのない手紙だ。ならば、出すことに意味はない。
はたしてそうだろうか?
何度も書いたファンレター。プレゼントに添えたメッセージカード。けして返事が欲しかったわけではないはずだ。
ただ、つたえたかった。
あなたがいてくれてうれしい。おなじ時代に、おなじ時間を過ごしてくれてありがとう。あなたの作ったもの、送り出すもの。わたしは出会えて、こんなにも生きることができた、と。
あれから。
ふしぎな縁がたくさん重なって、わたしには、いっしょに音楽をやってくれる人たちがいる。みんな、変で、おかしくて、前のめりで。うまく言えないけど、わたしは、その人たちのことを、すごく愛おしいなと思う。
向こうがどう思っているかはわからないけど、一方的にそう思っている。なんだか手紙みたいな感情だ。
2020年12月12日。
海にきた。理由はない。きたかったから、きた。
十二月の午後、三時の湘南は暖かかった。
浜へ降りる。砂を踏む。軽い感触。靴を脱ぐ、靴下を脱ぐ。
素足が砂に乗る。
靴越しにはさくさくと感じた砂が、足の裏にはふかふかと感じられる。間違って枕を踏んでしまったみたいだ。
江の島がよく見えるその浜は、十二月だというのにたくさん人がいた。子供と親、カップル、犬と人。それぞれが野放図に、近寄り過ぎず、ほどほどの距離を持って、それぞれの感情で海を楽しんでいる。
海へとまっすぐに歩く。
なめらかな砂がすこしずつ湿り気を帯びる。波がざぶ、と押し寄せる。靴を履いた人たちが、きゃあと悲鳴をあげて後ずさる。
わたしと子供だけが、一目散に一心不乱に海へと歩む。重く濡れた砂、置き去りにされた貝、すっとくるぶしまで波の流れ込む。
海だ。
まくり上げて剥き出しにした足首がたぷたぷ濡れる。
十二月の海なんて言葉の寒々しさは、頭の中だけのこしらえごとだ。本物は、現実は、こんなにも、やさしくて柔らかい。
一歩、もう一歩、はるかな沖へ小さな歩み。ふくらはぎに飛沫。
遠くで「うみ、こわぁぁぁい!」と叫ぶ子供がいる。
険しい顔をして此方を見る人がいる。靴の人だ。ちっとも寒くなんかない。触れに来たらいいのに。ほらタオルを買っておいでよ。
江の島に背を向けて波打ち際と平行に歩く。足首を潮に浸し、ぐに、ぐに、と踏み込む地面の気分のよさ。海をたっぷり吸った浜は、泥と呼ぶには確かさがあり、砂と呼ぶには足裏が沈み過ぎる。
重く濡れた砂の中に足を潜り込ませる。心地よい重み。ここを布団にできたなら、世界の終わりまでよく眠れそうだ。
右に人と陸、左に陽と海。
ウェットスーツを身にまとった人たちはもっと沖にいて、服を着た人たちはもっと浜にいる。歩く。歩き続ける。いつしか膝が濡れ、まくったズボンが変色している。海の刻印。
前にも一度、このあたり、江の島に連れてきてもらったことがあった。土地勘のないわたしが迷わずこの浜に降りて来られたのも、その記憶があったからだ。
そのときは夜。いまより暑かったけれど、それでももう海に入るのは不向きな季節だった。
暗過ぎて浜に至る道がわからなかったり、閉鎖されたりしていて、浜は見えているのに降りられなかった。
それでも海に触れたくて、江の島脇の突堤で波に手を伸ばした。どうしても闇雲に海に触りたかった。
同行者ばかりが波を被って寒がっていた。
わたしは最後まで海に避けられているようだった。
それがいま、存分に海と在る。
ひとり落ちていく太陽と向かい合う。浜は背にある。
波がざっと奥ではじけて、すーっとこちらへ近づいてくる。次の波がやぶれて平らな流れが寄ってくる。繰り返す。繰り返される。
これをうつくしいと思う存在が消えても、永劫、地球のおしまいまで続くだろう眺め。
あの人に、もうこの世にいないあの人に、手紙を出せるならば、海だろうと思っていた。
お墓がどこにあるかも、そもそも存在するかもしらない。命日に祈ったって、かなしいだけで手応えなんかありはしない。うたは残っているけど、あの人はもういない。
あの人がとくべつ海にゆかりがあるわけではないのだ。でも海なら此処にいない人へも届く。妙な実感があった。
十二月の低い西陽がまっすぐわたしを見据える。
ムーンロード、という光景があるのだそうだ。満月の前後数日間、凪いだ海面に描かれる月光の道。その光に願いをかけると、かなうのだという。
いま、わたしを射抜く陽光の道は、さながらサンロードだ。
海面の上をなめらかにオレンジの光が伸びてくる。波に導かれるようにわたしまでやってくる。
歩けると思った。
この道をどこまでもゆけば、わたし自身がきっと届く。
手紙だ。手紙になるんだ。
あの人がいなくなってからの世界、わたしがあなたに貰ったもので、どんなふうに生きてきたか。
届けたい。
伝えたい。
これが願いのかなう道ならば。
一歩、一歩。
もしここが人の少ない静かな浜だったら、だれかが声をかけたのかもしれない。それほどにまで、わたしはきっと岸から離れていた。でも、湘南の浜はそれなりの賑わいがある。他人がなにをしているのか、人目がありすぎてだれも見ていない。
沖へ。
彼方へ、西果てへ。
あと一歩。
まくり上げたはずのズボンは、すでに太ももまで濡れていた。
いま、この浜の中で誰よりも海にいる。
水面からほそい魚が飛び出すのが見えた。
あそこはどれほど深いのだろう。
まだ行ける。まだ届かない。
あと、一歩。
夕方の冬の海は黒くうねる。足下を見れば生き物のように泡。
波に翻弄される石や貝が、足の甲を転がり当たる硬い感触。
あと、一歩。
あと、
海が高鳴る。
一、歩。
陽は揺れる。
あと。
あと……。
急に、足が出なくなった。
身体が重くなっていた。
背を向けたままの陸から、たくさんの見えない糸が伸びている。
たくさんの糸が身に絡みついて、動けない。
とうめいなそれを手繰り寄せてみれば、それはたとえば、あしたの約束。
サンロードを浴びて至近の約束はいっとう綺麗にきらきらと光を跳ね返す。
好きなひとたちとつながっているほそい輝き。
この糸を引き抜けば、きっともっと海へと行ける。なのに、海と陸の間で拮抗する力のどちらにも抗えない。
まるで投函口に挟まった手紙だ。
このままどこまでも行けると思ったのに。海を経て届く手紙になれると思ったのに。
あの夜。海に焦がれるわたしは必死で波に手を伸ばした。けれど触れることはかなわなかった。海がわたしを拒んだ。そう、思った。
けれども本当のところ、海を拒んでいたのは、わたしのほうかもしれなかった。
大波は静かに寄せてきて、わたしを過ぎ、後ろで跳ねる。
海の中にありながら、けして海には溶け込めない。
水はこんなにも温かくて、風も波も凪いでいる。
目の前には誘うように黄金のサンロード。
なのに、ひとり。
ひとりなのに、背中はたくさんのなにかが、つながっている。
うつくしい海だ。
写真を撮る。
この情景を見せてあげたいひとがいる。
かなしいほどに光りおどる波。
横に構えて写真を撮る。
目前にある陽はこんなにも明るくて、空は広く雲は華やかなのに。写真の中では、じつにちっぽけだ。
「一緒に見れたら、よかったのに」
その相手が手紙の送り主なのか、約束のひとなのか、わたしにもわからなかった。
水平線に沿って広がる雲に落ちていく太陽。
まるい光は薄ねず色のもやに呑まれて、きょう最後のオレンジが拡散する。
水面のサンロードはとうに消えていた。
手紙にはなれなかった。
だからせめて、うたを歌った。
抱きかかえた約束に支えられるように。
思い出せるうたを、繰り返した。
けして届かないうたの手紙を、
海からわずかにのぞく太陽に。ゆるやかに羽ばたくかもめに。
遠く深く、満ちては引く海に。
なんども、なんども、海に。
どれほど海に居たのだろう。
水平線が藍から濃墨になったころ、足は自然と陸を目指した。
水の中は暖かいのに、首筋をなでる風が十二月であることをしめしていた。
太ももまでも覆っていた水は、一歩すすむごとに、ひざ、ふくらはぎ、足首……とどんどん消えていく。
進化のように重い足取り。濡れた砂から、乾いた砂へ。
遠くの塔が白く人工のあかりを灯した。
乾いた砂は風を敷いたように冷たかった。
とぼとぼと、砂まみれのコンクリートを歩く。
くっきり濃く濡れたズボンと、足爪にこびりついた砂だけが、あんなに親しかった海の名残だった。
高台の水族館から、わあっと歓声があがる。派手な音楽。暗闇を塗りつぶす人の営み。
わたしもまた人の群れのひとつ、一個体だった。
約束をそっと握る。なみだのように温かい。
海に手紙を出すならば、この手を離さなくてはいけない。
もらったうれしさも、いとしさも、好ましさも。
すべて、流さなくてはいけない。
光の道はわたしを呼んだのに、わたしは強欲な未練から手を離せなかった。
わたしはどうしても、どこまでも、手紙になれないけものだった。
わたしは歩き出す。浜に背を向け、海から遠ざかる。
街の灯りは青く、白い。
歌う。
波に包まれていたときとちがって、街でのうたは小さい。
それでも歌う。
約束のために。あの人のために。好きなひとのために。わたしのために。手紙のために。
サークル情報
サークル名:やまいぬワークス
執筆者名:斉藤ハゼ
URL(Twitter):@HazeinHeart
一言アピール
冬の新刊「空の写真」はムーンロードが登場する海の話を含む3本を収録。
今回の話は春の本「忘れてた君のうたが動脈の蛇口を壊してあふれだす春」の後日談でもあります。
この短編がお気に召したなら、新刊既刊、なにがしか琴線に触れるものがあるかと存じます。お気に留めていただけたなら、幸いです。
このひとの手紙の宛先、うたをつくるひと、おそらく自分もとても好きな歌うたいです。
幸か不幸か、自分があのひとの曲を知った時にはその人はもういませんでした。ただ、おれはこっちであなたの曲を聴くよ、うたうよ、といつもいつでも勝手に思っているのです。
自分は向こうのかの人には遠いし、こちら側にも約束があるような相手はいないし、どちらにひっぱられてるわけでもありません。悲しいですが。
けれども何の根拠もなく、「”この世界で”いつか会えるんじゃないか?」という気がしていて(とんでもない話ですね)、自分はこちらの世界を手放す気はないのだなぁ…と気づきました。そういえば、昔から希死念慮的なものがまるでない。死んだもんもこっち来い、な精神です。
そんなわけで、あのひとの曲が教えてくれた世界の美しさ、儚さ、暗いとこ、楽しみ…ずっと見てたいなぁ、CDに残されてる音源でもいいから、あのひとの音と、この世界を、自分の中の風景を、重ねて楽しむのをやってたいなぁ、ここで、と思うのです。
手紙になって海を行って、遠い向こうに届かりたいというひとを見て、逆におれは生きて、こちらの世界でもって楽しんでたいんだな、というのを気付かされた感じです。
いや、手紙になりたいくらいに投げたい気持ちがあるっていうのが自分にはわからないだけなのかもなぁ、うらやましいとも思いました。自分ならどうにかこうにかして届いたようなつもりになるやり方を考えますから。
本物を知らないということは、良くも悪くもこの宛先をちゃんと知らないということでしょう。相手のこともろくにわからないのに、そのひとを想って聴いたりうたったりしているというのが、自分にとっての「届いたようなつもりになるやり方」かもしれません。
宛先を知ってる人をちょっとうらやましいなと思いつつ、自分はまたこの場所で聴いたりうたったりするのだと思います。積もる雪のような言葉がすこしでも届いてくれやしないかな、と思いながら。
初めてなもので、長々とまとまりない感想で申し訳ありません。感想ですらないかもしれません。素敵な文章をありがとうございました。
月片様
ご感想、ありがとうございます。作者の斉藤と申します。
あの人はいなくなってしまいましたが、いま一番あたらしいライブには、いま一番あたらしいあの人の歌が溢れています。
わたしを引き留めた、わたしが好きな人たちの中には、あの人を直接は知らないけれど、縁あって巻き込まれて、一緒に歌ってくれる人もいます。
それのどれのこれも、すごく楽しいし、愛しいんです。
いないステージで響く音、知らない人の歌う歌。ぜんぶ、本物の歌。そう、わたしは思っています。
だからこそ、その本物を「こっちではこんな面白いことやってんですよへへっ」って伝えたかった。
歌は残る。
人はいつか会えなくなる。
歌は人から出でて、人とは別のものです。
どうぞ、月片様の望む形で、たくさん聴いてたくさん
歌ってください。作った人や、昔のことを、直接知らなくたっていいんです。
今、ここにある歌が本物じゃないなんて、誰が言えましょうか。
重ね重ね、拙文に感想を頂き、ありがとうございました。