高殿に座して
高殿にひるがえる衣が見えた。月の出を待っているのだろうか。それとも、何か珍しいものを見つけたのか。何かを一心に見つめている人が、いる。
あの衣は、夫のものだ。宮中への出仕から戻って着替えたのだろう、くつろいだ姿をしている。常とはどこか違った様子に声をかけることをためらい、しばらく下から見上げていると夫と目が合った。
「いい風が吹いている、上がって来るといい」
促がされるままに高殿に上がる。初夏の夕べ、やわらかな風が吹き抜けていく。心地良さにため息をつくと、夫がくすりと笑って傍らを指した。
横に座して夫を改めて見ると、惚けた様子は微塵もなくいつもと変わらないような気がする。傍らには白瑠璃の杯があり、少し酒を飲んでいたようだ。
視線が向かう先は群れなす鳥だろうか、夕暮れに遠くの山の棲家に帰っていく鳥たちの群れ。
「帰って行くのだな、あの鳥は。古里に、我らの古里の明日香に」
もう二年も経つのに、と言いかけて慌てて言葉を飲み込んだ。二年だろうと二十年だろうと、亡くなった親しい人を懐かしむ気持ちに水を差してはいけない。たとえ夫婦であっても。
「そうね、明日香に」
夫の顔から視線を外し、並んで同じ方角を向く。普段は何気なく目にする山々、懐かしく慕わしい古里・明日香。
「狂語か逆語かこもりくの泊瀬の山に霞立ちたなびく雲はいほりすといふ……という歌を聞いたことがあるわ。誰の歌かは知らないけれど。きっと、あの鳥は泊瀬の山に帰るのね」
「そうだな。姉上のところに」
やはりこの人は、姉上のことを偲んでいたのか。二年ほど前に儚くなった、檜隈女王を。いくら明日香を泊瀬の山を見ても、檜隈女王の元に行くことはできない。空を飛ぶ鳥ならば、泊瀬の山の向こう雲の先まで行けると羨んでいたのか。
寒いのだろうか、懐に両手を入れていた夫がため息をつく。
「これも、無駄になってしまった」
絞り出すように言って懐から出した手の上には、小さな獣の子がいた。これは……この茶色のふわふわとした毛を持つ生き物は。
「あぁ唐猫、だ。病床の姉上の慰めに、と頼んでいたのだがなかなか産まれなくて。頼んだことすら忘れていた今になって、手に入るとはなぁ」
経典を鼠から守るため、唐猫もまた唐から持ち込まれた。その姿の愛らしさは、噂には聞いていたがなかなか身近に知る機会はなかった。
夫の手の平の上で、小さな唐猫はかすかな寝息を立てている。触ったら潰れてしまいそうな、か弱い生き物。起こさないように、と自然と小さな声になる。
「檜隈さまの鮑玉をつけているのね。よく似合っているわ」
「ああ……」
小さな唐猫の首には、紐が結ばれ小指の先ほどの大きさの鮑玉が下がっていた。淡い光を放つ海の白い宝玉、鮑玉。
夫の異母姉、檜隈女王は鮑玉を連ねた首飾りを生前好んで身につけていた。物静かで、控えめな人だった。年が離れていたため、結婚するまで檜隈女王と親しく話す機会はほとんど無かった。夫は幼い頃から姉の女王にべったりで両親よりも慕っていたように見えた。肉親と言うより恋人のように見えたこともあったくらいに。そんな亡き姉・檜隈女王の形見のいくつかを、帯飾りに直して夫はいつも身につけている。唐猫の首から下がる鮑玉も、その遺品からなのだろう。
この人の姉上好きは相変わらずだ、と思いを込めて軽く睨むと夫はとぼけた様子で伸びをした。すやすやと眠る唐猫の尾がはたはたと動き、夫と目が合った。夢でも見ているのか、それにしてもいつまで寝ているのだろうこの子猫は。
「そう言えば、何か用があったのかな、吉備」
しばらくして、唐猫を見つめたままの夫が口を開く。問われてはじめて夫を探していたことを思い出した。
「先ほど円方女王が熱を出して伏せっていると知らせが来たの。あまり重い症状ではないようだけれど。何か、滋養のつくものでも見舞いにと思って呼びに来たのよ」
「そうか。円方が。珍しいな」
夫は他所に幾人も妻を持ち多くの子をもうけているが、円方女王はその中でも年長で目立った娘であった。今は太上天皇となった母の治世の後期に斎宮となり、伊勢に下ったのはまだ幼い時分で。
あの娘に初めて会ったのは、斎宮となることが決まり別れの宴を開いたときだっただろうか。斎宮の任を解かれて平城に戻って来た円方女王とは、たびたび行き来をしている。
「女たちに見舞いの品の準備をさせているから、そろそろ戻るわね」
そう言って座を立つと、夫もまた立ち上がった。どうやら一緒に見舞いの品を吟味する気になったようである。
「円方に治ったら唐猫を見にいらっしゃい、と使いの者に言付けなければ。ね、長屋?」
「ああ」
夫の返事に被せるように、目を覚ました唐猫の子がにゃああ、と鳴いた。
庭鳥草紙(Twitter)直参 B-05(Webカタログ)
執筆者名:庭鳥一言アピール
歴史創作の一次小説と、なんて素敵にジャパネスク(氷室冴子作)の二次創作小説を書いています。