『猫に関する考察』より、名前について

 屋敷に住むその少年は、黒と白と茶トラのたいそう見分けやすい三匹の猫を飼っていた。彼は自分の三匹の猫たちに《初恋》だとか《まどろみ》だとか、《天文学》だとか《空腹》だとか《モーツァルト》だとか、いつも好き勝手な名前を付けて遊んでいた。
 病弱で学校に行けず、屋敷から出ようとしない少年のもっぱらの遊び相手になっている三匹の猫たちには決まった名前が無い。彼は飼い猫に毎日新しい名前を与えるのを、退屈な日々の唯一の楽しみとしているのだ。
 命名が行われるのは毎日の朝のことである。彼は午前中気まぐれな時間に起きてのんびりと食堂に現れ、使用人が用意した朝食には目もくれずに自分の足元にすり寄って来た最初の猫を抱き上げる。彼は朝に弱くていつも眠そうな目をこすりながら食堂に入ってくるのだが、猫が寄って来た途端にぱっと明るい表情になって天使みたいに愛らしい笑顔を浮かべる。
 そしてその時には既に、彼の頭は忙しく回転を始めている。彼はとても慎重に、注意深く腕の中の猫を観察しながら思案する。そして朝食がすっかり冷たくなった頃、ようやく猫の名前が決定するのだ。
 その作業が終わると彼はほっと緊張をゆるめ、腕の中の猫に向かって呼びかける。例えばこう。おはよう、《お金で買える妖精》。そしてそれがその一日の猫の呼び名となるのだ。
 彼は不思議な子供である。その腕に抱かれた猫はけして暴れず、小さな指に喉元をくすぐられながら心地好さそうに目を細めるだけだ。
 まだ幼いのに些か人間不信のきらいがある彼も、猫にだけは心を開いているようだ。彼はどだい、常に微笑みを絶やさない愛想の良過ぎる少年であるが、猫を名付ける時には格別に優しい表情になる。薔薇色の頬に瞳のとろけたそれはそれは美しい笑みを浮かべるのだ。
 そしてかくいう私はと言えば、おそらくは彼にとって使用人以上、猫以下の実に中途半端な存在である。私は彼の遠い親戚に頼まれて、自分の学業の傍ら学校に行かない彼に勉強を教え、屋敷に住み込んで寝食を共にしている。家庭教師という立場ゆえ、使用人たちよりは接する時間が長いということもあるだろう。私がまだ歳若い女というせいもあるかもしれない。正確な理由は分からないが、彼は他の大人たちに対してよりはいくらか親しく私に心を開いてくれている。もっとも彼にとっては私などより、猫の方がよっぽど親しみと愛着のもてる遊び相手であるのは間違いなかろうが。
 ともかくも彼は私を含む、周囲のどの人間よりも猫を愛していた。しかし、これも彼の幼さの発露であろうか。過ぎたようにすら見えるその愛着の一方で、大人である私から見れば、彼の猫に対する接し方はまるでお気に入りのぬいぐるみに対するそれである。まるでお人形の洋服のように名前を毎日付け替えて遊ぶなど、彼にとっては愛する猫が玩具おもちゃのようだ。
 彼の歳にしてもいささか行き過ぎたこの幼児性について、私はいつも内心渋く思っていた。きちんと注意してやめさせた方が良いのではないか。しかし使用人だらけのこの屋敷の大人たちの中に彼にそのような忠告が出来る人物は居ない。何故なら彼の両親はもう、幼い彼を置いてとっくに他界してしまっているからだ。
 となれば、自分がその役目を負うのが近しき大人としての責任だろう。意を決した私はある朝、彼がいつものように足元にすり寄ってきた猫を微笑みながら抱きかかえた時にこう言った。
「今日はその子に、一日だけではない、その子自身の一生の名前を付けておやりなさい」
 彼はきょとんと目を丸くした後、やんわりとした調子で返事した。
「その話は、後でお願い」
 まるで年少の子を諭すかのようなその調子に、今度は私が目を丸くした。彼は私を無視して、いつものように三匹の猫たちに順番に名前を付けていった。
 彼が命名を終えてようやくテーブルに着席した時、私は本当の子供のようにむくれながら二人分のトーストに乱暴にバターを塗りたくっていた。彼が大人のように苦笑する。
「怒らせたならごめんなさい。でも、先生が無茶を言うから」
「無茶と言うのは何です」
 私が尖った声を出したので、彼は困って肩をすくめる。
「大事なことなんだよ」
 私は無言で彼に、トーストの乗った皿を差し出した。
 彼は申し訳なさそうに静かにさくさくとトーストをかじり始める。うなだれる彼に、私はそのままお説教を始めた。
「良いですか、名前というのはとても大切なものです。一生のうちにたった一つだけの宝です。貴方は猫たちをこんなに可愛がっているのだから、きちんと一匹いっぴきにたった一つの本当の宝物のようなお名前をつけておあげなさい。そうして毎朝そのお名前で、猫たちを呼ぶのです。たった一つの名前を、毎日繰り返し。そうすればきっと貴方の心の中に、今以上の猫への愛情がわいてきますよ」
 彼の幼い奇癖を咎める気持ちで私は言った。彼はトーストをかじるのをやめて口を尖らせ、「それは違うよ」と短く拗ねた。
「違いませんよ。貴方は結局、心の底から猫を大事にしていないからそうやって玩具で遊ぶようなふるまいが出来るのです。ああ、そうやって今に、この屋敷の使用人の方たちのことだって好き勝手な名前で呼び出すのではないかと思うと……考えるだにぞっとします」
「失礼な想像だなあ。使用人たちに名前をつけるだなんて、そんなことは夢にだってしやしないさ。だって僕は、愛する猫たちに少しでも良い名前をつけてやりたくて、毎朝こうやって知恵を絞っているのだもの」
 トーストの最後の一かけを口に押し込むと、彼はミルクを飲んで勢いよくそれを胃の中に流し込んで饒舌に語りだした。彼の口調には熱がこもっていた。
「先生の言う通り、名前というものはとても大事だよ。だって、名は体を表す、とも言うだろう。これは先生が教えてくれた言葉だよ。人にだって、猫にだって、誰にだってこの世には一番良い名前というのがあるものさ」
 彼の勢いに、私は些か怯みながら言い返す。 
「お分かりになっているなら結構です。しかし貴方の言う通りならば、毎日ころころ気分で名前を変えるのでなく、その猫にいっとう良い名前を相応しくみつくろってやるのが、いっそう正しい愛情というものではありませんか」
 彼は大げさに首を振った。
「猫というのはとても気分屋な生き物なんだよ。人間からは想像もつかないくらいにね。良いかい、猫はね、今日と明日と明後日では全然違う気分で生きているんだ。良い飼い主なら、そこのところをよく汲み取ってあげなくちゃ」
 彼はそこまで言うと椅子に腰かけたまま、足元を歩いていた黒猫を手慣れたしぐさで膝の上に拾った。
 今日のこの猫の名前はなんと不名誉なのだろう、《ふしあわせ》という。彼は《ふしあわせ》のつやつやしとた毛並みの背中を撫でながら、いとおしそうに目を細めた。
「僕は自分の愛するものにしか名前を付けないよ。だからこの屋敷の人たちになんか、絶対に名前を付けないよ」
 その時、彼の眉間に少しだけ不快そうな色が差した。
 私はハッと小さく息を呑んだが、それも一瞬のことで彼はすぐにいつものように愛らしい笑みを浮かべた。
「僕はね、猫が大好きなんだ。猫とは僕にとって、友達、恋人、相棒……その全部だ。僕の周りにはそんなふうに呼べる人が誰もいないから、僕は猫たちのことを本当の家族みたいに愛してる。僕は愛する猫たちに、親が子に贈るように毎日ふさわしい名前を贈りたいんだよ。」
 彼の言葉に、私は彼が今までに三匹の猫につけたたくさんの名前を再び思い出してみた。
 この大きな屋敷の中で独りぽっちの彼が、自分より小さな生き物に与えた寂しい愛情の数々。友人であり、家族であり、彼に遺された全てである生き物の名前。
《青ひげ》《剃刀》《人に恋した犀》。
《快楽主義者》《十一月生まれ》《孤独》《初めての煙草》《燃え上がる結婚指輪》。
《箪笥の中の遺髪》《生まれなかった弟》《壊れた父の時計》《開けられなかった手紙》《美しく発狂した僕の母》……。
 そうしているうちに、気付けば私の足元に白猫がすり寄ってきていた。
 こいつにつけられた今日の名前は《陽だまり》だ。《陽だまり》はまるで本当の陽光の中にでもいるように、私の足に顔をすり寄せながらうっすらと寂しそうに目を細めている。
 気だるげに寝そべる《幸福》の隣で、いつの間にやら彼の膝から降りた《ふしあわせ》が居眠りしながらひくひくとヒゲを動かしている。つられたように、今度は《陽だまり》が大きく口を開いてあくびをする。
 彼が飼う猫たちは皆おとなしく、いつも冬の陽光の中のようにどことなく寂しげである。そう、まるで、彼の笑顔みたいに。
 食堂の窓から差し込む朝の陽差しを反射して、彼の細い栗色の髪がきらきらと光っている。
「そうだ、良いことを思いついた」
 唐突に彼が明るい声をあげた。何か面白いたくらみ事を思いついたように、彼の瞳がきらりと輝く。
 私は何だか嫌あな予感がした。彼は真っ直ぐにその、微笑を含んだいたずらな眼差しを私に向けた。
「今日は猫だけじゃなく、先生にも名前を付けてあげるよ」
 私は驚いた。だって彼は先ほど、みずから言っていたではないか。自分は愛するものにしか名前を付けない。猫は自分にとって家族のようなものである。だからこの屋敷の人間なんかに名前は付けない、と。
「嫌だな、先生は特別に決まってるじゃない」
 彼はしれっとそんなことを言い返して猫のように目を細めて笑った。予想外の返答に私が目を丸くしていると、彼は敏捷に猫の宙返りのようにくるりと表情を改め、じっと黙って私の観察を始めた。
 どうにも妙なことになった。生き物を玩具にしてはならないとたしなめるつもりか、まさか自分が彼の玩具になってしまおうとは。
 猫に似た彼の大きな瞳から浴びせられる視線が、じっくりと不躾ぶしつけに私の全身を行き来する。じっと大きく目を開いたかと思えば、険しく眉をひそめたりしている。彼は夢中で思案している。
 何だか手持無沙汰になった私は、そんな彼をぼんやりと眺めている。窓から降り注ぐ光の中で、彼の細い髪がきらきら、きらきらと輝いている。
 何かに熱中している時の彼は、本当に美しくて賢い子供だ。まるで本物の天使みたいに。
「僕ってね、愛するものに適切な名前をつけるのが本当に上手いんだよ。だって僕は、先生のことだって、心の底から本当に愛しているんだもの――」
 可愛らしい眉間にしわを寄せたまま、そううわごとのように呟いて数秒。
 彼は突然、ぱっと明るい表情を浮かべた。苦難の末、とうとう私にぴったりの命名を思いついたらしい。
 彼はにっこりと私に向かって微笑んだ。その瞳が飴のように優しくとろけている。喜びで頬が紅潮している。
「では、発表するよ。今日の先生の名前は、猫だ」
 そう言うと、彼はもう一度満足げに微笑んだ。そしてそのまま立ち上がり、テーブルの反対側に座る私の所まで軽やかに歩み寄ってきた。
「こっちを向いて、先生」
 何だか妙に照れ臭かったが、私は仕方なく椅子に座ったまま彼を見た。ちょうど視線が合う。座る私と立ったままの彼の視線の高さは真っ直ぐ同じである。
「先生は、今日だけは僕の猫だよ」
 彼は優しく目を細めたまま、柔らかい手つきで私の喉元を静かに撫でた。
 細くて柔らかな彼の指先が、優しく私の喉をくすぐっている。初めて出会ったばかりの猫に、怖くないんだよと教えてあげるかのように。
 何故か私は、彼の手を静かに受け入れてしまう。まるでこの館の猫たちのようにおとなしく。まるで彼の飼う、四匹目の猫になってしまったような気分で。
 彼の幼い指先の感触が不思議なくらいに心地好くって、ほだされるように、いつまでもこうしていたいとすら思ってしまう。
 しかし、私は忘れてはならない。彼は今日呼んだ名前で明日の猫を呼ぶことはない。何故なら彼にとって名前とは、一日限りの寂しい愛情であるから。
 明日になれば彼はもう、私を猫とは呼ばないだろう。優しさでとろけた飴のような瞳で私を呼ぶことはないだろう。彼は同じ愛情を二度は送らない。日をまたげば私はもう、彼の猫には二度となれない。
 私は想像する。明日よりも、もっと遠い未来。彼の指先が少年の幼い柔らかさを失って、大人の男の硬さになった時。その時私はもう彼の猫では無い。彼の指先が今日と同じように私の喉元をくすぐる日は、永久に訪れない。
 その時にも彼はまだ、人間を愛せずに毎日繰り返し三匹の猫たちに名前を贈り続けているのだろうか。大人の彼の指先を思って勝手に寂しくなって、少年の彼の指の感触を喉にこそばゆく感じながら、私は冬の陽光の中のように眩しく目を細めた。


Webanthcircle
チャボ文庫(Twitter)直参 C-17(Webカタログ
執筆者名:海崎たま

一言アピール
 既刊の掌編集『海に降る雪』を持っていきます。新刊では卵生譚や異類婚、兄妹婚神話などをモチーフにした幻想短編集『卵怪談』の頒布を予定しています。

Webanthimp

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください