我輩はセンパイである

 夕方五時のサイレンが鳴りひびき、風が冷たくなってきた。この間まではまだまだ明るかったはずなのに、早くも日が陰りはじめている。
 一、二、三、四……、サッカーボールをリフティングしながらナオの帰りを待っていたけれど、トイレに入ったまま、戻ってくる気配はない。みんなはもう帰ってしまって、広場にいるのはぼくだけだ。
 なんだろう、遅いなぁ。おなかでもいたいのかな。
 蹴り上げたボールを両手でキャッチすると、公園の隅にある公衆トイレへと向かった。コンクリート製のトイレの壁は黒くすすけている。近づくだけでも少しニオイが気になるので、公園のトイレって、本当はあんまり好きじゃない。
 入り口から男子トイレの内部を覗いてみると、ナオの背中が見えた。トイレの壁際にくっついて、何かに耳をそばだてている。「早く帰ろうよナオ」と声を掛けると、慌てたようにこっちを振り返って、口元に指を一本立てた。
「どうかしたの?」
 近づいていくと、「イジメ? ギャクタイ? そんな感じ」と、これ以上ないくらいのひそひそ声で答え、壁に向かってひとさし指を向ける。
「トイレの裏に誰かいるの?」
 ナオは大きく頷いた。壁の向こうに耳を澄ましてみると、確かに、ぼそぼそと人の話す声が聞こえてくる。
「わっセンパイ、そんなに怒らないで。イタッ、イタタタ! ああ……ひどいなぁ、傷だらけだ――」
 傷だらけ? ぼくたちは顔を見合わせた。
「落ち着いてください、ほら、この前約束したもの、ちゃんと持ってきましたから――。さあどうぞ。……このことは絶対に秘密ですよ。こんなことをしているのがバレたら、この辺を歩けなくなっちゃいますからね……」
 バレたらこの辺を歩けなくなる? ぼくたちは再び顔を見合わせた。 
「……ねえ。これってハンザイか何かに巻き込まれているとか? ケーサツに知らせたほうがいいのかな」
 ナオが不安げに訊ねてくる。
「いや、多分、現場を押さえたほうがいいな。知らせに行っているうちに、いなくなるかもしれないから」
「現場を押さえるって――」
 ぽかんとするナオを置いて、ぼくはトイレを出た。ケガをしているのなら、一刻も早くなんとかしなきゃ。声が聞こえるのは一人だけだから、多分裏にいる人数は、二人。それ以上なら、他の人間の話し声も聞こえるはずだ。しゃべっているほうが一方的にいじめられていて、もう一人は相当怒っている感じだな。声の感じが大人っぽいから、中学生か、それよりは年上のはずだ。
 傷だらけって言っていたし、相手は凶器を持っているのかも。近づくのは危険だな。どうしようかな……。そのときふと、脇に抱えていたサッカーボールが目に入った。
 そうか、よし。
 外壁伝いにそろそろと裏手へ進んでいると、背後からTシャツのすそを引っ張られた。振り返ると、青い顔をしたナオが、無言のままぶるぶると首を振っている。どうやら「やめろ」と言いたいらしい。
 大丈夫、と口を動かすと、あっちに行ってろ、というように、右手でナオを押し戻した。けれど怖がりな割に妙に律儀なところがあるナオは、ぼくの服の裾を握り締めながら、後ろを付いてくる。
 トイレの裏では、ひそひそ話が続いていた。
「いつも怒鳴られてばかりで……だからって辞める勇気もないし……」
 声はさっきよりも一層元気がなく、ちょっと涙ぐんでさえ聞こえた。
「……何をやってもだめなんです、ぼくは……」
 そう聞こえた瞬間、ぼくは意を決してトイレの裏手に飛び出した。目の前に、中腰になって何かを見下ろしている男の背中が見える。そいつに向かって、ぼくは力任せにサッカーボールを投げつけた。
「うわっ!」
 ボールは見事に男の頭に命中し、完全に不意を付かれた男は前につんのめって倒れた。
「弱いものいじめとか超ダッサ! ケーサツに言いつけてやるからなっ!」
 でっかい声で叫ぶと、ぼくは後ろを振り返って、恐怖のあまり凍りついたままのナオの腕をぐいっと掴んだ。
「逃げるぞ!」
 叫ぶと同時に、全速力で走りだした。後ろも振り向かずにがんばって走ったけれど、腕を掴んでいるナオの足が遅いので、なかなか前に進まない。遅いどころか、ブレーキをかけて僕の腕をひっぱってくる。
「ちょっと待って、来人! あの人、こっちに向かってボールを投げたよ。おーいって呼んでいるし、なんかヘンだよ」
「えっ?」
 突然足を止めたのがいけなかったのか、後ろを付いて走っていたナオが、ぼくの背中に激突して「ウワッ!」と声を上げた。
 慌てて公衆トイレのほうを振り返ってみると、スーツ姿の男の人が「おーい」と叫んで、こっちに手を振っている。足元を見ると、こちらに向かってサッカーボールがころころと転がってきた。
「それ、きみたちのだろ?」
「……」
「持って帰りなよ」
 そう言って、恥ずかしそうに笑うその人の右手には、猫用のおやつが握られている。そしてその足元では、痩せた猫がぐるぐると歩き回り、もの欲しそうな声でニャーニャーと鳴いていた。
「……えーと……。……あっ!」
 もしかして。
 さっきの会話を改めて振り返るうちに、ようやく事の真相に気が付いた。
「『センパイ』って、ポンスケのこと、だったんだ……」
 緊張していた肩の力が抜ける。隣でぽかんとしていたナオに「え、えっ? どういうこと?」と訊ねられたとたん、全速力で走った疲れがどっと押し寄せて、「なぁんだ」と、広場にへたり込んでしまった。

 ポンスケは、この公園に住んでいる野良猫だ。何匹かいる公園の野良猫たちのボスで、愛らしいというよりは、厳しく辛い浮世を一人生き抜いてきたような、すごみのある目つきをしている。だからその人がセンパイと呼ぶ気持ちは、何となく分かるような気がした。
 公園に住んでいる猫の餌付けが問題になっていることは、何となくは知っていた。猫好きな人、嫌いな人、お互いの意見が対立して、なかなかビミョウなことになっているらしい。餌付けをすると糞害がひどくなるとか、これ以上繁殖すると困るとか、色々な苦情が来るので、野良猫へのエサやりは絶対禁止ってことになったようだ。
 とはいえ、餌付けが正式に禁止された今も、猫たちは普通にこの公園で暮らしている。どうやって食いつないでいるのかなと思っていたけど……、そうか。きっとこういう人が今でも時々現われて、こっそりとご飯をあげているんだな。
「ポンスケっていうのか、センパイは」
 スーツ姿のお兄さんは、目の前で美味しそうにおやつを食べる猫の背中を撫でた。
「はい。この辺の小学生はみんなそう呼んでます」
 スーツ姿だし、遠くから見たときはもうちょっとおじさんかなと思ったけれど、その人は近くで見るとそんなに年を取っているようには見えなかった。多分、二十代なかばぐらいじゃないかな。
「いやぁ、さっきは恥ずかしいところを見られちゃったなぁ」
 お兄さんは苦笑いを浮かべた。
「僕はね、この辺の家を一軒一軒ピンポンして回らなきゃいけない仕事をしているんだ。だけど、大抵はどこの家も居留守を使うし、たまに玄関に出てくれても、名乗った途端、話も聞いてもらえなかったりでね。まあ、リフォーム業界も悪徳業者が増えているから、仕方ないところはあるんだけど……」
 お兄さんは、小さくため息をついた。
「入社して間もないし、なかなか弱音を吐く場所もなくて。歩き疲れて公園で休憩していたら、センパイに出会ったんだ。公園に大きく掲げられた『餌付け禁止』の看板を見て、野良猫稼業も大変だなって思ったら、なんだか他人とは思えなくて」
「だから『センパイ』なんですか」
 ぼくの言葉に、あはは、とお兄さんは笑った。
「ポンスケにご飯をあげたのは、『餌付け』じゃなくて『報酬』なんだ。ぼくはセンパイに愚痴を聞いてもらって、センパイはおなかが満たされる。そうやって世の中が丸くおさまるのって、なんかいいじゃない」
 お兄さんはポンスケから手を引っ込めると立ち上がり、スーツについた砂をぱたぱたとはたいた。
「あの、さっきはごめんなさい。ボールぶつけちゃって」
 勘違いとはいえ、申し訳なさ過ぎた。ぼくの言葉に「いやいや」と答えると、お兄さんは笑った。
「なんだかあのボールに喝を入れてもらった気がするよ。きみ、勇気あるね。すごいよ」
 ボールをぶつけられて転んだ割に、お兄さんはなんだか嬉しそうだ。
「じゃあ、また。ポンスケにエサをやっていたことは、この辺の人には内緒にしておいてね」
 お兄さんは手を振ると、ポンスケに向かって「センパイもお元気で」と声をかけ、笑顔のまま帰っていった。
「猫に愚痴るなんて、仕事、相当大変なんだね……」
 お兄さんを見送りながら、隣で話を聞いていたナオが神妙な顔で呟いた。
「『ボールに喝を入れてもらった』ってことは、ぶつけてよかったってことなのかなぁ?」
 首をひねると、貰ったおやつを平らげたポンスケが、間髪入れずにニャアと鳴いた。
「あっ、ポンスケが今『そうだ』って言った!」
「まさかぁ。偶然だろ?」
「いや、意外と人の言葉が分かっているのかもしれないよ。大人にセンパイって呼ばれているぐらいだし」
 ナオは大真面目な顔でそんなことを言う。……そうなのかな? 当のポンスケに目を落とすと、そ知らぬ顔であくびをしていて、ちょっと笑いそうになった。
「じゃあさあ。また今度確かめに来ようよ」
「うん。傷だらけにならないように、お土産も忘れないようにしなきゃだね」
 公園を出るとき、ふと気になって後ろを振り返ってみると、さっきまでそこで悠々と毛づくろいをしていたはずのセンパイの姿は、もうどこにも見えなかった。


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執筆者名:西乃まりも

一言アピール
テキレボ初(委託)参加です。今回は『ギャラクシィ少年の社会見学記』という作品の主人公二人の、公園でのエピソードを書きました。お気に召して頂けた方は、本のほうにもきっとご満足いただけるはず!サークル誌二種も委託予定です。お試し価格の読みきり短編集ですので、初めましての方もお気軽にどうぞ♪

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