猫と女人

 とざい、とーざい。これよりお話申し上げますのは、皆さまお馴染みの譲寧ヤンニョン大君漫遊記の番外編であります。厚伯(譲寧大君のあざな)さまは、今回はどんな騒動を起こすのやら。しばらく、お付き合いのほどを。
* * *
 初秋の日差しを受けながら、我らが譲寧大君は山道を歩いております。いつも側に控える鳳伊ボンイ虎伊ボミの姿は今日はありません。これには、ちょっとした理由があります。
 話は数日前に遡ります。
 譲寧大君の下の弟君で現国王である世宗大王は、時間が出来ると同母兄の厚伯さまと孝寧大君を自室に招いては酒肴を共にします。政務に忙しい王さまの息抜きの時間といったところでしょう。
 この日も王さまの自室で、兄弟三名は楽しいひと時を過ごしていました。
「……ところで、兄上は近頃、慎ましい生活をなさっているようですね。」
 王さまは、楽しげな口調で譲寧大君に話しかけました。
「はい、お蔭様で毎日、書物を友に過ごしております。」
 真面目くさって応える長兄に、さらに王さまは問いかけます。
「書物が相手では、やはり物足りないでしょう?」
 王さまのふくよかな顔には満面の笑みが浮かびました。
 これを見た譲寧大君は、?これは、まずいぞ?と思いました。弟がこうした表情をする時は、何かよからぬこと(あくまで譲寧大君にとってですが)を考えている時です。
「兄上、賭けをしませんか。」
「賭け?」
「はい、兄上が勝ったら王位を譲りましょう。」
「冗談じゃない、いらんよ!」
 厚伯さまは、王位に就かないようあらゆる手段(?)を尽くして今日の?お気楽な?地位を手に入れたのです。いまさら、そんなものを押し付けられては堪ったものではありません。
「で、お前が勝ったらどうするんだ?」
 譲寧大君の喋り方が、くだけてきました。
「そうですね。私の言うことには何でも従ってもらいましょう。」
 悪い予感は強まってきました。しかし、弟君は、幼い頃から一度言い出したら何をいってもききません。厚伯さまは受けざるを得ませんでした。
 さて、賭けの内容は如何なるものでしょう。
「兄上に、城外の官衙に書状を届けて欲しいのです。ただ、その道中は決して女人と接してはなりません。お出来になりますか?」
「なんだ、簡単なことじゃないか。」
「では、兄さんは出来る方に、私は出来ない方に賭けることになりますね。」
 どうやら賭けは成立したようです。
「それと鳳伊と虎伊は連れて行かないで下さいね。従者は、こちらで用意しますから。」
 こうして数日後、譲寧大君は都を発ったのですが、直前に従者の都合がつかなくなり、結局、お一人での旅となりました。
 厚伯さまは、女人に遭わぬ様にと敢えて山道を選んで歩きました。
?何しろ女人の方が近寄って来るのでな?
というのはあくまで本人の弁。実際はどうなのでしょう。
 周囲の風景は山中から里のものに変わりました。田圃は黄金色に波打っています。民家からは賑やかな笑い声が聞こえてきます。
?民の暮らし向きは良いようだな。賢弟の政事がいいのだろう。あいつは子供の頃から優秀だったからな。王位を押し付け、じゃなかった譲って正解だった、わしはいいことをしたなぁ?
 そうこうしているうちに目的地が近付いてきました。ふと足元に何かが触れるのを感じました。
「にゃ~」
「お出迎えご苦労。」
 譲寧大君はまつわりついた猫を抱き上げます。
「お前は女じゃないだろうな。あ、猫は関係ないか。」
 彼は官衙に向かって歩みを進めます。門をくぐろうとしたところで、猫は大君の懐から飛び出し、何処かへ行ってしまいました。
「譲寧さま、このたびはご足労いただき恐縮しております。」
 出迎えた官衙の主は、貴人を前にして身体が固まっているようです。
「出迎え大儀であった。」
 大君がねぎらいの言葉を掛けると、主は賓客を官舎内に案内しました。そして、大君が書状を渡すと、お役目は完了となりました。その後は、お決まりの歓迎の宴となるのですが、
「今回は妓女は呼ばんでくれ。」
との大君の要望により、宴席は地味目に、そして早々に終ってしまいました。
 朝から歩き通しだった譲寧大君は疲れ気味だったこともあり、夜の更けるのも待たず休むことにしました。寝室に入ろうとすると「にゃ~」と何処かで聞いた声がしました。
「あいつはここの住人ならぬ住猫だったのか?」と呟きながら、中に足を踏み入れたところ、そこには猫を抱いた妙齢の女人の姿がありました。
「申し訳ございません。」
 女人は猫を放り投げるようにしてその場に平伏しました。
「お前は何故ここにおるのか?」
 大君の問いに女人は伏したまま答えました。
「わたくしは、官衙で下働きをしている者です。お床を延べた後、あの猫がいきなり飛び込んできたので捕まえたところでした。」
 怯えたような声に大君は気の毒に感じて、
「面を上げよ。」
と穏やかな口調で言いました。
 女人が上体を起こすと、大君は「おお!」と思わす声を漏らしてしまいました。
 色白で素朴な雰囲気をまとった彼女は、まさに大君好みの女人でした。
 大君は、女人の側に行き、その手を取りました。女人は、当初こそ身を震わせていましたが、そこはこれまで多くの女性たちと浮名を流してきた大君のこと、すぐに親しい仲になりました。
 翌朝、大君は顔に何かが触れるのを感じて目を醒ましました。
「また、お前か。」
 自分の顔を舐めていた猫を起き上がった大君は抱きかかえました。周囲を見回したところ、殺風景に感じました。簡単な調度品と自身の床があるのみ。女人がいた形跡が全く感じられないのです。
「あれは夢だったのか……。」
 用件が済んだため、大君は都へと向かいました。例の猫が後をついて来たため、そのまま懐にいれて歩いています。やがて王宮に辿り着くと猫は懐から飛び出し、姿をくらましてしまいました。
「王宮が嫌いのか。ま、わしも嫌いだから、よく抜け出すのだけどな。」
 苦笑混じりに呟きながら中へと入っていきました。
 王さまのもとへ帰京報告に行くと、
「今宵は兄上の慰労の宴を開こう。」
と微笑みながら応じました。
 その夜、臣下たちを集め賑やかな宴が行なわれました。王さまの両脇には譲寧大君と孝寧大君が控えています。そして王さまの膝の上にはいつ来たのか件の猫が丸まっています。
「その猫は……。」
 譲寧大君が呟くと猫は大君の膝に飛び移りました。
 宴席の舞は、独舞から群舞に変わりました。
 一人の舞妓が舞いながら大君に近付いてきました。
「お前は!」
 舞妓の顔を見て大君は驚愕しました。官衙にいた女人でした。
 隣にいる王さまは愉快そうに二人を眺めています。
 実は、全て王さまが仕組んだことでした。あらかじめ兄君好みの妓女を選び出し、官衙に送っていたのでした。妓女には兄君を誘惑するように言っておきました。ただ、予想外のことが起きてしまいました。妓女が兄君を本気で好きになってしまったのです。
「兄上、賭けのことは覚えていらっしゃいますよね。」
 弟君の言葉に我を取り戻した大君は、目の前で平伏した妓女から目を離しました。
「ああ、わしの負けだよ。」
「では、私の言うことは何でも聞いて下さるのですよね。」
 王さまは、ご機嫌でした。
「この女人を兄上の側女として下さい。いいですね。」
 大君に否はありません。
「仰せに従います。」
と言いながら、大げさにその場に平伏しました。
「あと、これも兄さんのことがお気に入りのようだ。面倒を見てやって下さい。」
 王さまは自分の膝に戻ってきた猫を大君に渡しました。
 その後、妓女は円満な性格でよく気が利くため、大君の正妃や他の側室たちとも仲良く過ごし、人懐こい猫は大君家の全ての人から可愛がられました。
「まったく賢弟には適わぬわ。」
 折に触れて、譲寧大君は呟くのでした。
* * *
 と、いうところで、ちょうど時間となりました。次回もお時間がありましたら、どうぞお付き合い下さいませ。
………………………
「閣下、いかがでしょうか。ご先祖の譲寧大君は、さほどに民衆に愛されています。」
 閣下こと李承晩大統領は黙ったままだった。
 市場の片隅で口演師と聴衆の様子を眺めていた主従は、この場には相応しくないスーツ姿だった。
「閣下は、ご先祖同様、この国の民から慕われているのですよ。」
 側近の白々しい言葉は、大統領にとって何の慰めにもならなかった。彼は日々下がっていく支持率に気を病んでいた。自分は、大韓民国のために尽くしているのに、何故、国民は分かってくれないのだろうと。
 だが、大統領は国民のことを理解しようとはしなかった。間もなく、彼は大統領の座を追われ、祖国からも追われてしまうのである。
 李大統領の側近には、苦言を呈する人物がいなかったといわれている。ご機嫌取りにご先祖の物語を広める者はいたかもしれないが、国民の苦しみを伝えようとする者はいなかったようである。


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執筆者名:高麗楼

一言アピール
今回は楽しい物語を書こうと思ったのですが、結びでやはり暗く(?)なってしまいました。筆者の本質が根暗なせいかしら(苦笑)。

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