遠く離れて大和をおもう
水面を滑るような静かな足取りで、膳を捧げ持つ媼が来るのが見えた。しなやかな水鳥に似て、
手際よく膳を並べ、給仕するこの媼は誰だろう。髪は雪のように真っ白だが、動きはきびきびとしていて無駄がない。宮に仕える采女を思い出す。この地方の豪族の出で、かつて宮中に仕えていた媼かもしれない。
飛鳥から付き従ってきた
若布をつまみ
「恐れながら、皇子さま。この飯は、土地の神々への供物にございます。京とは異なり、このように椎の葉に盛り神前に供えます」
ふと舎人に目を向けると、顔を上げて頷いている。そう言えばあの者は、この近くの出であった。
「そうか、自らのことに取り紛れ土地の神々への挨拶を怠ってしまったな」
ふ……と、笑いがこぼれた自分に驚く。もう、笑うことも泣くこともないと思っていたのに。立ち上がり、海に向けて一歩踏み出す。
「そなた……以前は、大宮人であったのか?」
「はい。ですが今となっては昔のことでございます、有間皇子さま」
娘時代に采女として宮中に上がり仕えること二十年余、共に出仕した同郷の夫に先立たれ宮中を退出、故郷の紀ノ国に戻ったのだという。
「そうか、では難波宮は見ていないのだな」
「はい……難波に京をとの詔が出て後も飛鳥に出仕しておりました。難波宮が間もなく完成すると言う時期に、宮中を退出いたしました。海が目の前にある難波宮は、さぞ明るく開けていたことでございましょう」
飛鳥を、群山に囲まれた大和の地を思い返したのだろう。媼は遠く離れた山を振り返る。海に近い紀ノ国から大和に行き、二十年を過ごした媼。飛鳥に生まれ、難波に住んだ時期もあったとはいえ今まで生きてきた大半を海のない大和で過ごしてきた自分とでは海に対する思い入れが違うのだろう。
宮中で何代もの御世を見てきた媼は、多くの政変も見てきたはずだ。二十年の間、誰に仕えたのかと問うと何人かの中に間人皇后の名が返ってきた。亡き父の妻である。お世辞にも父との夫婦仲が良かったとは言えないが、それでも継子である自分のことを気にかけてくれた人だった。
「良い、音だ。この波と松を揺らす風は」
「はい……皇子さま、これを」
媼が渡す
「どうぞ、こちらの飯を」
手渡された椎の葉に盛られた飯も共に捧げ、頭を垂れる。真幸くあれば、ふたたびこの磐代の地に。牟婁の湯で待つ女帝は、
「家にあれば
懐かしい家のある飛鳥、慕わしい大和にはもう待つ人は居ない。それにしても、磐代とはなんとまた遠くに来てしまったのだろう。神前に供える
「皇子さまの旅の幸いと……御名の名誉を祈念致しております」
出立の時刻なのだろう、赤兄や供人たちがが立ち騒ぐ音を切り裂くように媼は言った。
「ああ、再びこの地に」
再びこの磐代に、再び大和に戻れますよう。神々へ願い祈った以上、果たされるかと疑うことは許されない。必ずや、この地に帰る。決意も新たに澄み渡った海を見つめ、幣帛を結んだ松葉に手を差し伸べる。
「磐代の……浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む……また、還り見む」
サークル名:庭鳥草紙(URL)
執筆者名:庭鳥一言アピール
万葉集の和歌から着想を得た「明日香風、吹く」、江戸時代の大坂道頓堀の人形浄瑠璃にまつわる「化狸浪華賑」の他、東日本にしかない和菓子すあまを取り上げた「すあま色イロ食べ比べ」を頒布します。
悲しみの中に、歴史小説の趣を感じました。媼の造形がすばらしい!