遠く離れて大和をおもう

 水面を滑るような静かな足取りで、膳を捧げ持つ媼が来るのが見えた。しなやかな水鳥に似て、裳裾もすそはかすかな揺らぎを見せるだけである、膳にはこの地の産物であろう魚や若布、野菜を用いた品々が並んでいて、かつてのみやこでの宴のことを思い出す。今となっては遠い、難波でのことを。凪いだ海を見つめていると、この海が難波の海と繋がっていることを不思議に思う。陸路の旅のくたびれた重い足を、穏やかな波音が優しく撫でてくれる。
 手際よく膳を並べ、給仕するこの媼は誰だろう。髪は雪のように真っ白だが、動きはきびきびとしていて無駄がない。宮に仕える采女を思い出す。この地方の豪族の出で、かつて宮中に仕えていた媼かもしれない。
 飛鳥から付き従ってきた舎人とねり塩屋連鮗しおやのむらじのこのしろは、遠く離れた場所でひれ伏している。謀叛の咎で囚われの身の自分に近寄ることをあの男、蘇我赤兄そがのあかえが許さないために。
 若布をつまみあつものの汁を少しすすってから媼に向けて首を振る。味が悪いわけではないが、とても食欲はわかない。目を伏せていた媼が顔を上げ、目が合った。何も言葉を発することなく静かに頷き膳と共に下がっていく。しばらくして再び現れた媼は白湯と、椎の葉に盛った飯を携えていた。
「恐れながら、皇子さま。この飯は、土地の神々への供物にございます。京とは異なり、このように椎の葉に盛り神前に供えます」
ふと舎人に目を向けると、顔を上げて頷いている。そう言えばあの者は、この近くの出であった。
「そうか、自らのことに取り紛れ土地の神々への挨拶を怠ってしまったな」
ふ……と、笑いがこぼれた自分に驚く。もう、笑うことも泣くこともないと思っていたのに。立ち上がり、海に向けて一歩踏み出す。
「そなた……以前は、大宮人であったのか?」
「はい。ですが今となっては昔のことでございます、有間皇子さま」
娘時代に采女として宮中に上がり仕えること二十年余、共に出仕した同郷の夫に先立たれ宮中を退出、故郷の紀ノ国に戻ったのだという。
「そうか、では難波宮は見ていないのだな」
「はい……難波に京をとの詔が出て後も飛鳥に出仕しておりました。難波宮が間もなく完成すると言う時期に、宮中を退出いたしました。海が目の前にある難波宮は、さぞ明るく開けていたことでございましょう」
 飛鳥を、群山に囲まれた大和の地を思い返したのだろう。媼は遠く離れた山を振り返る。海に近い紀ノ国から大和に行き、二十年を過ごした媼。飛鳥に生まれ、難波に住んだ時期もあったとはいえ今まで生きてきた大半を海のない大和で過ごしてきた自分とでは海に対する思い入れが違うのだろう。
 宮中で何代もの御世を見てきた媼は、多くの政変も見てきたはずだ。二十年の間、誰に仕えたのかと問うと何人かの中に間人皇后の名が返ってきた。亡き父の妻である。お世辞にも父との夫婦仲が良かったとは言えないが、それでも継子である自分のことを気にかけてくれた人だった。牟婁むろの湯への行幸に従駕する際、飛鳥に残る自分にくれぐれも言動に気をつけて自重するよう使いを送ってきたこともあった。
「良い、音だ。この波と松を揺らす風は」
「はい……皇子さま、これを」
媼が渡す幣帛へいはくを手に取り、松に近寄る。青々とした松葉に旅の無事を祈って幣帛を結ぶ。「皇子さまの旅路の平らかなことを、再び松を結びにこの磐代いわしろの地へ戻られますよう……」采女として長く宮中にあった媼は知っているはずだ。謀叛の咎で捕らえられ護送の道中、再びこの場所に戻るなどあり得ないと言うことを。それでも無事を祈るのか。同情でもなく、淡々と真摯に。
「どうぞ、こちらの飯を」
 手渡された椎の葉に盛られた飯も共に捧げ、頭を垂れる。真幸くあれば、ふたたびこの磐代の地に。牟婁の湯で待つ女帝は、大兄おおえと人々に呼ばれる葛城皇子は自分を許すだろうか。許す許さないの問題ではないのだろう。
「家にあればに盛る飯を……草枕旅にしあれば椎の葉に……盛る」
 懐かしい家のある飛鳥、慕わしい大和にはもう待つ人は居ない。それにしても、磐代とはなんとまた遠くに来てしまったのだろう。神前に供える土器かわらけの代わりに椎の葉を使う習慣だとは。母方の一族が勧めてきた娘や側仕えの女の幾人かが浮かんだが、その姿も今となっては遠い霞のようなものだ。
「皇子さまの旅の幸いと……御名の名誉を祈念致しております」
出立の時刻なのだろう、赤兄や供人たちがが立ち騒ぐ音を切り裂くように媼は言った。
「ああ、再びこの地に」
 再びこの磐代に、再び大和に戻れますよう。神々へ願い祈った以上、果たされるかと疑うことは許されない。必ずや、この地に帰る。決意も新たに澄み渡った海を見つめ、幣帛を結んだ松葉に手を差し伸べる。
「磐代の……浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む……また、還り見む」


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サークル名:庭鳥草紙(URL
執筆者名:庭鳥

一言アピール
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遠く離れて大和をおもう” に対して1件のコメントがあります。

  1. 浮草堂美奈 より:

    悲しみの中に、歴史小説の趣を感じました。媼の造形がすばらしい!

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