Point of no return

 あまり髪を切りたくなかった。でも妻は髪を切りたがった。
「おもいっきり、ばっさりと」と妻は言った。だから僕の頭部に係わる一切を彼女に委ねた。妻は鋏を鳴らしながら指さばきよく僕の髪を落としていった。髪の毛はいまのままでも構わなかった。にも関わらず妻の髪を切るリズムは文句のつけようがなかった。耳をすませば環境音楽のようにも思えた。木製の小さな椅子を浴室に配置し、上半身裸で髪を切られているのはなんだか国の平和の象徴のようだ。浴室の壁は僕と妻のうすい影を孕んで青白く微光していた。なんのことない休日の真昼時。外では木々が色づきはじめた。妻に出会って、いや妻が変わってからもう一年が経とうとしている――。

   *
 秋もそろそろ終わろうとする十月の末、僕が帰宅すると妻はたった一部屋の照明をつけずじっとテレビを見ていた。部屋に拡散する青白い不健康な光を彼女は一心に浴びていた。珍しいことだ。普段は本を読むか料理を作るかスマホを見ている。テレビを見るのはもっぱら僕だ。
「目を悪くするぞ」と電気をつけてやる。妻は不意に夢から転落したように首を起こしどんよりした目で僕のいる方角を眺めた。妻はメガネをかけていなかった。となると、テレビを相当近くで見ていたのだろうが目は充血していなかった。むしろ両の白目はテレビの光を吸収したみたいに青く見えた。
「どうした?」
「あ……ううん、なんだか気になる番組で」
 テレビに映っていたのは民放のニュースに差し挟まれたハロウィン特集だった。昨年の渋谷の様子を映していた。渋谷は仮装する人で溢れて魔女やカボチャ頭や包帯女やアニメコスプレの人もいて奇妙な光景だ。
「なんだ、珍しい。行きたいのか?」
「ううん、そういうわけじゃなくて、うーん……バイトから帰ってずぅっと見入ってた気がする」
「昼過ぎ? いくら明日がハロウィンでもこんな時間まで延々と特集しないだろう。クリスマスだってそんなことはない」
「うん……うん、そうだよね。……あ、ご飯すぐ作るから。お風呂入ってて。ごめんね。軽くつまむものから用意するから」
「ゆっくりでいいよ。風呂にゆっくり入ってくるから」
「あ、お湯はってない」
「風呂入ってないのか。先にシャワー済ませて、湯を溜めとくよ」
 ごめんと謝る妻に、疲れてるのかと問えば、妻は意図が分からないように口をぽっかり開けて、肯定とも否定ともとれない曖昧なうなづきをした。

 次の日、街もスマホのニュースもオレンジとパープルに装飾されたハロウィンに浮かれていた。僕は稟議書作成と雑事に追われていた。午後の営業までにキリのいいところまで仕上げてしまいたいが、後輩が肩を叩いてきた。僕は立ち上がり腰を回しながら喫煙所に向かった。
 後輩はかすかに立ち昇る煙をぼんやり眺めていた。僕はその時すでにIQOSを吸っていた。ワンダを飲もうかと思ったけれど、最近はセブンイレブンのコーヒーがおいしいので外出まで我慢してスマホでハロウィンの話題を眺めた。
「なあ、お前ハロウィンってなにかする?」
「しないですね。彼女がいた時はデートしましたけど限定メニュー食うとか、そんなもんで」
「渋谷とか行かない?」
「行かないっすね。去年友達に誘われたけど身体に馴染まないっていうか」
「馴染まない?」
「子供のころ、クリスマスとお正月は特別でしたけど、ハロウィンってなんの思い出もないですもん。今更新しいものが入ってきても、って感じで」
「あー、なんとなく分かる」
「先輩今日渋谷行くんですか?」
「いや、興味はないんだけど、奥さんが昨日食い入るようにハロウィン特集を観てて。興味あるのかな、って」
「俺、先輩の奥さん会ったことないですけど、そんな人でしたっけ?」
「いや、そうなんだよなー。でも行きたいのかな」
 後輩の適当な応答は煙と一緒に消えていった。

 契約先から出ると妻から着信が残っていた。僕は不安な気持ちにかられた。妻は通話を嫌い、僕らは普段ラインのメッセージでやりとりするから。
「もしもし」
「あ。仕事中だよね」
「いまは大丈夫だよ、どうした?」
「うん、今日さ仕事終わったら渋谷に来れない?」
「ハロウィンか?」
「うん」
「そっか……分かった。でも俺はスーツのままだぞ」
「うん、大丈夫。じゃあお仕事がんばって」
 僕は胸がなんとも重たかった。

 渋谷に向かう電車内も仮装した人々に溢れていた。
 ハチ公前で待ち合わせ、とはいったものの人ならざる人々がごった返して、彼女と出会うにも一苦労だ。髪の毛を真っ赤に染めた顔中斑点の男や、ジャン・ポール・ベルモンド扮する気狂いピエロの真似っこ、歯を剥き出しにした特殊メイクの女の子など怪物たちを数えあげればキリがなかった。僕が迷っていると妻が僕を見つけて肩を叩いてきた。彼女は僕と確信して肩を叩くなり、大きな黄色い声で「トリックオアトリート!」と叫んだ。どこか近くで彼女の声に反応するように何人かの「Trick or treat? yeah!」というネイティブな発声と笑いが響いた。それに続いて若い男女の「トリトリウェーイ!」と絶叫も聞こえてきた。
 彼女はどこでどう手に入れたのだろう、鼻から上をすっぽり隠す、カボチャのヘルメットを被っていた。それはお面というより、後頭部まで覆うのでヘルメットといった方が正しかった。僕は妻の名前を呼ぶと、妻は僕の手を引いて、雑踏を歩き出した。妻はもともと気分の浮沈が激しい気質だが、かつてこんなにも軽い足取りでこんな雑踏を歩くのは見たことがない。
 僕らは雑踏を進んだ。彼女が用意したハイネケンとオリオンビールを飲み交わしながら。タバコを吸う場所を探すのは諦めた。ただただ妻と離れないようについていった。
「どこか行くあてはあるの?」と僕は聞くと、「どこにもない場所」と妻は明るく言い放ってハイネケンの缶を逆さにして自分のかぼちゃ頭を叩いてみせた。麦の雫がこぼれ彼女の薄いカーディガンに小さな染みをつけた。
「染み」と僕が言うと、「うん、染み出してるね」と妻は言う。僕は妻に話しているはずなのに、彼女は舗装道路の継ぎ目に話しているようだった。
「nowhere」と看板に書かれた店に入っていった。店内は雑然としてかろうじて聞き取れる英語の他にも色んな言語が混じりあうライブバーだった。
「このマスクをかけてよ」と彼女はリュックサックからガスマスクを取りだした。マスクは口元に細工がされて剥き出しだ。やってきた牛頭の巨躯な店員が言うには、お店には顔を隠すドレスコードがあるとのこと。僕は諾々とガスマスクを被った。視界が悪い。
 僕らはアルコールを摂取しつづけた。別に珍しいことじゃない。僕らはアルコールに強かったから。でも彼女はこんなにビールばかり飲んだろうか? 僕はレッドアイにチリソースを入れて飲んだ。彼女はレーベンブロイを飲んだ。ナッツとオリーブの味は感じなかった。
 僕の視界はガスマスクのゴーグルに阻まれて妻のカボチャ頭はもはやぼんやりとした黒い惑星のようだった。店内奥で光る小さなステージではクジラのニットキャップで目を隠したワンピースの女の子が詩を朗読し、伴奏の細身の男の子は熊の木彫り面をつけてギターを雄弁に響かせた。そのステージへの歓声も響いた。どこの言葉なのかまったく分からなかった。
 妻は小説に出てきた料理のことや、政治についてのこと、公園の藤棚の下で踊る女の子を写真に撮りたいこと、今度の長い休日には四国を巡りたいこと、アルバイトを替えたい思い、学生の時に友達の首筋に噛みついてたことなど、あらゆることを話した。すべてを話したいみたいだった。僕は柄にもなく酔いが回ってきていた。妻の話に相槌を打つばかりして次第に吐き気を催した。終いには男女共用のトイレに駆けこんでガスマスクを剥ぎとった。
 便座に向かってうずくまってみるが、胃の内容物は出ていかない。外から言葉の渦は流れてきて、妻は昨日からなんだか変で、僕の胃はぐるぐるしている。外から「Nowhere! Anywhere! No! Trick? Or Treat? Yeah, ha ha ha. Point of no return!」という雰囲気の言葉の合唱が聞こえる。どこにもない場所。
 トイレの赤い扉がノックされる音が響く。しかし僕は耳で捉えるだけで、ノックを返すことも声で「入っている」と伝えることもできずにいる。ノックされた向こう側から僕の名前を呼ぶ震えるような声が聞こえる。妻だ。
「ねえ、もう行かなくちゃ」という彼女の声は震えている。さっきの陽気な彼女ではなく、少し沈んだ声。その彼女らしい声の温度。
「大丈夫だよ、私はどこにもない場所から来たから。心配しないで。行って帰るだけなんだから」
 彼女は不明の言葉を残して、バイバイと言い、もう二回扉をノックした。すると妻の気配は消えた。それから僕は昨日今日の一切を、白い陶器の水溜まりに向けて吐きだした。

   *
 彼女が切った髪の処理をして、僕は細かな毛を集める。
「うん、すっきりさっぱり」妻は明るくにへっと笑った。彼女は一年前から快活な女性だ。僕らは細かい毛を流すためにすっかり衣服を脱いでシャワーを浴びた。夕暮れにはまだ早い。
「ハロウィン、今年は行きたい?」
「うーん、怪物が想像以上に多かったから、もういいかな」
「去年のハロウィンは覚えてる?」
「覚えてるよ。バルで潰れちゃって介抱が大変だった。次の日、休んで正解だったよ」
「なんて店だっけ?」
「anywhere」
 僕らはぬくい湯を浴びた。なんとなくそんな雰囲気になって、身体を拭き下着のまま布団に身を投げだした。僕を見上げる彼女になにかを言うべきだった。でも彼女はにへっと笑って僕の髪をくしゃっと撫でる。それでもう、僕の言葉はどこかへ隠れてしまう。
 夕暮れにはまだ早いが、やがて。


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サークル名:羊目舎(URL
執筆者名:遠藤ヒツジ

一言アピール
羊網膜傾式会社からサークル名が変更になりました。本作をお楽しみいただける方には、最新刊の短編集『幻視(仮題)』と既刊『目の落ちる転がる現在は身もそぞろ』がオススメです。ぜひ不穏と奇妙とペーソスに満ちた世界に沈んでください。

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