彼女の笑った日

 ぱぁん ぱぁぁん
 音がする。何だろう……。
 はっと、私は目を覚ました。
 寝室のベッドの上で、スーツのまま転寝をしていた。頭の中に少し酒が残っているのが、自分でわかる。
 窓のカーテンの隙間から、薄日が差す。時計は午前四時。夏は日の出が早い。
 気分をすっきりさせたくてベランダに出る。河が見えた。
 都内の、そこそこマンションの立ち並ぶ住宅街。引っ越した当時、河と我が家の間には古びたアパートが立ちふさがっていたのだが、都市計画で公園や遊歩道が整備された。そのおかげで、この家から新築された二つのマンションの間を縫って、河の水面が見えるようになった。
 妻は喜んで、リフォームで窓を拡張し、ベランダを作った。彼女こだわりのベランダが出来上がって一年経つ。私が彼女の失踪届けを出してから、もうすぐ一年だ。
「折角リフォームしたのにな」
 一人になって一年。子供もいないし家事は元々できるので、何の不便もない。ただ、以前より酒を飲むようになった。
 ずっと真面目に生きてきたが、妻がいなくなってしまってから、自分の生き方に意味はあったのだろうかと自問するようになっていた。
 妻は私の真面目さが好きだと言って結婚を承諾してくれたのに。もう十年以上もその言葉を信じ、喜び、彼女を幸せにしようと真面目に生きてきたのに。
 私の彼女はいなくなってしまった……。
 もう真面目な私は止めだと思ってみても、せいぜい夜毎酒を飲み、ベッドでスーツのまま眠るくらいしかできない。私の真面目さは生来のものだし、あまり酒に強くないのだ。
 一階へ降りる。トイレに入ると、彼女のためのピンクの小さなボックスが置いたままなのが見える。棚には生理用品が入ったまま。
 義母は失踪届けを出してしばらくして、ここに訪ねてきて泣いた。待っていてくれるのね、と。あの子がどうして家出をしたのかわからないけど。こんなに真面目で良い旦那様を置いて行って、勝手で申し訳ないのに、あの子の物をそのままにして、帰ってくる場所を残してくれているんですね、と。
 リビングに入り、レースのカバーのかかったソファに座る。
 去年の夏から、この手編みの夏用カバーを使い続けて、季節が一回りしてしまった。テレビの横の造花のヒマワリも、ほったらかして一年分の埃がのっている。
 カレンダーだけは時が動いて、会社で貰って来た、今年のものだ。
「ああ、今日から盆休みだ……」
 例年のように実家に帰るのも気づまりだ。
 正月に一人で帰省したら、妻の失踪のことをとやかく聞かれて参った。実家の親はデリカシーが無いので、思いつくままをまくしたててきて堪らない。
 だるい頭で、少し本を読んでみる。案の定、集中できない。
 妻がいなくなってからの一年、何をしていても意識のどこかで、妻は私の何が嫌だったのかと、自問してしまうのだ。答えの無い疑問が邪魔をして、集中できない。
 私は何か、外に出る趣味を作るべきかもしれない。
 くだらないテレビをぼんやり見て、夕方、ビールを飲み始めた。苦みを舌で受け止めながら考える。
 私の何が嫌なんだ。どうして欲しかったんだ。なんで私の下からいなくなってしまったんだ。
 ローテーブルでスマホが震える。取引先だろうか。
 確認すると、妻のアドレスからメールが来ている。彼女がいなくなってから、初めてのことだ。
 私は着信画面を見下ろしたまま、しばらく動けない。どうして、メールが?
 今……酔っていて、おかしなものが見えているのか。一年も経ってメールが届くものだろうか?
 一年前のあの日を思い出す。
 出張がお盆休みにずれ込んでしまったのだ。が、幸い、出張先の商談が早々にまとまり、新幹線のチケットも取れたので、お盆休み初日に急いで家に帰った。帰りの在来線が妙に混んでいた。家に着くと、妻が……
 ぱぁん ぱぁぁん
 音がして、私は我に返った。
 手の中のスマホに、再び目の焦点を合せる。とにかく、中を見なくてはいけない。
 メールを開くと本文はなくて。動画が添付されていた。
 動画には妻が映っていた。浴衣を着て、こっちを向いて立っている。笑顔で……年相応のシワがあるけれど、出会った頃そのままの輝く笑顔で、口が動いた。何かを、言った。
 短い動画はそれで終わりだ。
 これはどういうことだろう。返信しようか?
 しかし、何を返信すればいいのか。どんな反応を期待して、このメールは送られたのだろう。
 愛してるとでも返せば、妻は戻ってくるんだろうか? そんなものは、夢想だ。彼女はいなくなってしまった。私達は元には戻れない。
 誰かが妻のアドレスを使って送ってきたのだろう。今、私は少し酔っているし、軽はずみに反応すべきじゃない……。
 ぱぁん ぱぁぁん
 音がする。
「外……か?」
 うるさいな、と思った。朝からどこかで、何か作業でもしているのかもしれない。
 私はビールとスマホを持って、二階へ上がった。
 このまま眠ってしまいたい。このまま全て夢になって、目覚めたら横で妻が眠っているなんてことにならないだろうか……。
 ベッドに寝そべり、動画を見直す。いなくなって、こうして動画を見て思い出した。一緒にいる時には、すっかり見慣れてしまって何も感じなかったけれど……妻は本当に可愛い女性だ。歳を取っても可愛らしくて、出会った頃のままの笑顔が眩しい。
 動画の彼女は何をしゃべっているんだろう? ボリュームを上げる。
 小さな音に耳を澄ます。妻の口が動く
 ぱぁん ぱぁぁん
 またあの音だ。何の音だろう。
 更にボリュームを上げる。
 ぱぁん ぱぁぁん
 音は動画から聞こえていた、何度も再生しながら、私は妻の声を聞こうとした。
 ぱぁん ぱぁぁん
 ねえ、と。妻のかすかな声がする。彼女はラベンダー色の浴衣を着て、甘えるように言っていた。
「ねえ、似合うでしょ?」
 妻の背後のカーテンに見覚えがある。
 私は窓を見る。そう、動画に映っているのはこの寝室のカーテンだ。
 ぱぁん、という音と共に、現実のカーテンの向こう側が一瞬光る。何だろう。
 窓に額を付けて外を見ると、マンションの谷間から河川敷が見通せる。
 ぱぁんと、大きな打ち上げ花火が輝くのが見えた。
 そうか、花火の音か。妻が気にしていたっけ、花火大会より前にリフォームが終わるかどうか、と。家から花火を見たい、いつも音だけでつまらないから……あなたは人ごみを嫌がって、見に行かせてくれないから、と。
 この動画は去年撮ったものなのか。私は彼女の笑顔に目をこらす。似合うでしょ、と笑うその彼女の目線の先には、撮ったヤツがいる。
 ヤツは、妻をそそのかし、世間知らずの妻は無邪気に信じて私から離れてしまったのだ。
 私は画面の中の彼女の瞳に、ヤツが映り込んでいるのが見えた気がした。そして今、私はヤツと同じ目線で妻を見ているんだと気が付き……妻が浮かべている輝く笑顔がヤツに向けられているのだと気付き。気持ちが悪くなった。
 誰が、この動画を送って来たのか。
 妻の訳はない。妻のスマホは、私が粉々に砕いた。ヤツの物も同じく、だ。
 二人が、私がこの部屋に入る前に誰かに送信していたのか? わからない。あの日、私は作業に夢中でデータの確認はしなかった。
 ベッドに突っ伏し考えるが、何も思いつかない。メールが成り済ましだとしても、どうやって本当の送信者を確認しよう。警察には言えない。誰にも言えない。
 ぱぁん ぱぁぁん
 花火の音。外からの音じゃない。
 スマホの動画の音だ……
 送信者の目的はなんだろう……
 ぱぁん ぱぁぁん
 花火の音がうるさい。腹立たしくなり、スマホの電源を落とす。なのに、音は止まない。
 ぱぁん ぱぁぁん
 外の花火大会の音だったのかと、窓を見る。しかし、カーテンの向こう側には深い闇しかない。花火大会はいつの間にか終わっているようだった。なのに続く、花火の音。
 これを最初に聞いたのはいつだったか。そうだ、今朝だ。
 スマホを見下ろす。画面は暗い。
 花火の音がする。家の中からする。
 私はあの日、ちゃんと全てをやり遂げた。何もかも全て、土の下で静かに眠っているはずなのに、花火の音がする。
 私は音の方へと向き直る。
 ぱぁん ぱぁぁん
 近づいてくる花火の音を聞きながら。妻の気に入りのベランダを背に立ち。私はドアを見つめた。
 あのドアは開くだろうか。一年前のあの日のように。
あの日ドアを開けたのは、私だ。
 今夜ドアを開けるのは……。

おわり


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サークル名:チューリップ庵(URL
執筆者名:瑞穂 檀

一言アピール
オリジナルのショートショートや読み切り短編を書いています。ほのぼのファンタジーやSF、少しホラーなものを書くのが好きです。

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