九〇パーセントの水

 ○×小学校三年二組の教室は窓が西に面している。黒板や教壇は南側に、ランドセルや道具袋をしまう棚は北側に設置あった。その棚の天板に、七月のある朝突然水槽が置かれた。
 その水槽は天板の幅いっぱいの奥行きがある長方形であり、側面はコの字型のカバーを被っていた。カバーは水槽内に水流を作っているらしく、接合部から時折気泡が溢れていた。
 水槽にはクラゲが一匹入っていた。持ち上げようとすれば両手が必要になるほどの大きさをしていた。水流を傘に受け、特段抵抗する様子もなく、わかめのような触手をいくつも下に漂わせていた。
「クラゲにはヒーリング効果がありますから」
 水槽を持ち込んだ、担任の笠原先生はその一言でクラスの皆を納得させた。
 笠原先生はいつも僕たちを見ていない。顔は向いていても、視線はどこか遠くで結ばれている。僕らに対して興味の欠片も持っていないのだ。薄気味悪いと新年度当初から評判になり、その暗さに当てられた教室内は、夏が近づき気温が高まるのに反比例して、日増しに冷え込んでいた。
 その笠原先生がクラゲの来た日から微笑むようになった。表情筋がほどけ、口元が弧を描く。まったく自然な笑い方だった。その笑みを初めて見た者は皆息をのみ、目にしたばかりの奇怪な場面を休み時間に囁き広めた。
 クラスの雰囲気は次第に変わり始めた。
 クラゲの水槽にはいつの間にか砂利やおもちゃの海藻が設けられた。有志の誰かによってエサとなる小エビが定期的に撒かれ、水流、水温の管理が自主的に行われるようになった。
 担任の先生が暗いよりは明るい方がいい。
 沈鬱だったクラスに前向きな共通意識が芽生え始めた。とはいえ、全ての児童がクラゲを受け容れたわけではない。僕もその、受け容れていない側の一人だ。クラゲを見るのも嫌だったのに、それに群がる同級生たちも腹立たしかった。

「最近うちのクラス、いい感じだよな」
 給食の時間、隣席の佐藤という男子が、話の流れでその話題を口にした。寄り集まった同級生たちは素直に首を縦に振る中、僕だけが頑として頷かないでいると、佐藤がまじまじと見つめてきた。僕は観念し、肩をすくめた。
「クラゲが嫌いなんだよ」
 疑問と、非難の視線が集まるのを感じた。僕はツイストロールパンを乱暴に毟ったが、食べるのは止めた。
「昔、刺されたんだ」
 静寂ののち、同級生たちの顔が弛緩する。佐藤が大袈裟に鼻で笑った。
「お前、そりゃ海にいる野生のクラゲだろ。うちのはあれは水槽の中にいんだぜ。刺されないクラゲなら怖くもなんともないだろ」
「ヒーリング効果もあるしね」
 別の女子が横やりをいれると笑い声が起った。僕への興味はすぐに薄れたようだった。
 指の合間で、ツイストロールパンはくしゃくしゃになっていた。

 僕が初めてクラゲと遭遇したのは幼稚園児のときだ。
 父親の気まぐれで、ろくな準備もなく海に赴き、波に足を取られて流された。手足をバタつかせて必死に助けを請うている最中、足に激痛が走った。水の中では、いくつもの薄青い円形のクラゲが僕にまとわりつこうとしていた。
 食われる!
 僕は恐怖で頭が真っ白になった。
 あのときのクラゲどもは明確な敵意をもって僕を攻撃してきていた。それに加え、目も鼻も口もないクラゲとはコミュニケーションなど到底取れそうになかった。何もできないままくびり殺される恐怖に見舞われ、僕の意識は途絶えた。ライフセイバーに引き上げられ、息を吹き返すまで、僕は嗄れた声で「殺される」と呟いていたという。
 以来、僕はクラゲが嫌いだ。奴らは僕の敵だった。だからクラスに来た奴のことも、皆のように好きにはなれなかった。

 棚の傍で女子が泣いて、別の女子が寄ってたかって慰めていた。水槽の中では水面が稚魚の死体で埋め尽くされていた。漉かされた光をシャワーのように浴びながら、クラゲはふよふよ優雅に漂っていた。
 友達を増やそうとした、と女子は白状した。一〇〇匹入れて、残ったのはたったの一〇匹。死亡率九〇パーセントという凄惨な事態に、泣いていた女子も次第に声を荒げだしたが、笠原先生は「仕方ありません。生き物ですから」の一点張りだった。
 当事者の女子は俺の斜向かいの席だった。僕は急いでノートを引き千切り、メモをしたため、佐藤を経由して送った。
「小魚たちのことは俺も残念に思う。皆は気づいていないようだけど、クラゲは本当は凶暴な生き物なんだ。俺は奴らに殺されかけたことがあるんだよ」
 返事は早かった。
「詳しく聞かせて」
 俺は非常階段の踊り場を指定して返した。休み時間に落ち合った女子に、俺は腕をまくって見せた。
「ほら、これ」
赤くなったみみず腫れに女子は小さな悲鳴をあげた。
「園児だった頃に襲われたんだ。それなのに、今でもときどき痛みを感じる。一生治らないんだ。僕がどれだけ怖い目に遭ったか、今の君ならわかるだろ?」
 女子は涙目になって何度も頷き、僕と別れるとクラスの女子の元へと直行した。絶句する女子たちを遠目から眺め、僕は自分の思惑の成功を予感した。授業中に輪ゴムを一〇〇回弾いた甲斐があったというものだ。
 数日もすると、クラゲの世話をする者がいなくなった。皆極端なものだ。水槽の中は汚れ始め、ちやほやされていたクラゲもどこか力がなくなったように見えた。
 一学期末の、とある授業の終わりに、教頭先生が笠原先生を呼び出した。教頭先生が前々から水槽を奇異の目で見ていたことを僕は知っていた。僕はほくそ笑むのを隠しながら、笠原先生の退出を眺めていた。授業開始のベルが鳴り、どうしたことかとクラス中に動揺が広まった頃に、笠原先生は赤い眼をして戻ってきた。
「残念ですが、クラゲを海に返します」
 その日の放課後、有志が集まり協力して水槽を運んだ。
 バスに揺られて海へ向かい、煌めく波間に水槽を沈めた。弱り切っていたクラゲは傘をいっぱいに広げて浮かび、やがて海流にさらわれた。薄い膜が揺られ、形がおぼつかなる。その姿がほとんど海と同化した頃、同級生たちから鼻をすする音が聞こえてきた。殺人鬼と噂されながら、クラゲを仲間と捉えていた者も決して少なくなかったらしい。
 とはいえ、同級生たちがどれだけ泣こうが喚こうが僕には関係のない話だった。青というよりは灰色の、途方もなく広い海に消えていくクラゲを見て、僕はただひたすら胸のすく思いだった。

「それでは理科の授業を始めます」
 気の抜ける笠原先生の号令で、僕たちは教科書を開く。
 クラゲを逃がした翌日から、笠原先生はまた笑顔を見せなくなった。いつの間にか満ちる潮のように、沈鬱な雰囲気がまた僕らのクラスに広がっていた。
 一学期末の試験に向けて、授業は淡々と進んでいく。必要なことを聴き取り、余計な話は聞き流す。粛々と進む、ごく普通の授業時間だった。
「人体の七〇パーセントは水なのです」
 テキストの空隙に設けられたコラムを笠原先生が読み上げる。重要でないと判断した僕は次の章へ向けてページをめくった。ところが何故か声が聞えなくなった。見上げれば、笠原先生は教科書を開いて固まっていた。
 僕はコラムに目を落とした。人間の身体と、それを横断する波の模様が描かれている。人間の横には矢印が延び、小さい子ども、次にまた矢印、そして最後には赤ちゃんが並んでいた。
 笠原先生は息を吸った。その音の大きさに、僕はつられて顔を上げた。
「水の割合は年代によって変わります。大人よりも君たちの方が多く、赤ちゃんになるともっと多くなります。そして、胎児では九〇パーセントにも及びます」
 ざわめきが起きた。コラムには書かれていない内容だったからだ。
 笠原先生の変貌に、クラスの皆が注目した。
「この値は、クラゲにも匹敵します」
 笠原先生の目に、久方ぶりの光が宿っていた。
 僕を睨んでいる。
 勘違いかもしれない。僕がクラゲに対して何をやったかなど、笠原先生が気づいているはずはない。
それなのに、僕は息が詰まった。鼓動が早まり、汗がじとりと喉を伝い落ちた。
「あなた方も元をたどれば、クラゲと似たようなものなのですよ」

 夏休み前の最後の授業、その後のホームルーム。修了式後の簡単な事務連絡。それらを終えると、笠原先生は僕らの前から姿を消した。突然の辞職だった。どこかの資産家と不倫して裁判沙汰になっただとか、その際に腹にいた子どもを堕ろさせられたのだとか、親同士の間では結構な噂が立ったらしかったが、当時の僕たちには一切聞かされなかった。ただその不穏さだけは伝わっていて、担任の先生が替わっても、誰も疑問を口にせず、むしろ早く新しい先生に慣れようと焦り気味に努力していたように思う。
 あれから数年が経ち、小学生の頃の記憶は曖昧になった。佐藤を含め、あの頃の友達の顔もおぼろげにしか思い出せない。それらは遠い過去の記憶になってしまった。
 未だに僕はクラゲが怖い。海水浴や水族館に誘われても、別の選択肢はないものかと探してしまう。その度に周りから訝しがられ、面倒な奴だと罵られる。しかし、なりふり構ってはいられない。奴らは僕を殺したがっているのだ。なぜなら奴らは、僕と変わりないのだから。


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サークル名:鳴草庵(URL
執筆者名:雲鳴遊乃実

一言アピール
個人での創作活動をしています。日常から少し不思議な程度の物語。ささやかながら確かな感情を書いていきたい。

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