彼女はクジラにはなれない

 海に潜るクジラを見たことがあるだろうか。
 直接でも映像でも絵画でもなんでもいい、潜るクジラをイメージしてほしいのだ。水面に頭だけ出して呼吸をして、そして潜る。島にも見える大きな生き物が転じ動くその姿に感嘆を覚えた人もいるだろう。
 しかし実はクジラは海の潜り方を知らないと聞いたら驚くだろうか。

――――

 少女は漂っていた。水平線ばかり広がる海の中で、場違いのように白い点となってそこにいる。人の群れからちょっと離れただけで喧騒は去ってくれる。聞こえるのはたゆたう波の音ぐらいだった。
 少女の目には空が映っている。青い空と白い入道雲。空中に散らばっていた水の粒が集まり形作っている。それは千切れることなくあれよあれよと膨れ上がり、空を支配せんとばかりだ。しかし太陽はそれをものともせず空の真ん中に鎮座していた。鎮座する太陽から刺すような光を降り注がれても少女は身じろぎ一つしない。顔色一つ変えず海面に浮かんでいた。
 そんな彼女に大きな波が意地悪く被さってきた。咄嗟のことに口を閉じ忘れてしまう。たちまちに体が重くなったのを感じた。空気の代わりに塩辛い水が流れ込み、残りわずかな体内の空気と交じり合いやがて弾ける。体内のどこかで気泡が弾けたのだろう。
 それでも海はただひたすらに広がり、空はどこまでも青かった。
 少女は青が嫌いだった。まるで世界中の嬉しさと悲しみが溶けた色をしているから。嬉しさと悲しさの境目がなくなると後に残るのは残酷だけ。
 でも今は。
 少女は目を閉じる。
 もう青い色は気にならなかった。絶望を覚えるのは人が安定の中にいるから。安定はただ生きて過ごすだけではわからない。安定がいなくなり隙間に絶望が転がり込んで人は初めて安定がいたことを思い出す。しかし今は安定などない彼女には青色の意味は必要なかった。
 目を閉じ何も見えなくなった代わりに体の感覚がよりはっきりと伝わってくる。とはいっても五感のほとんど、特に触覚は既に無いに等しい。海水が流れ込む喉、流れ込んだ海水をにじませる胸、腹にも流れ込んだだろうか?
 そこから向こう、足は先だって沈んでいた。ああ崩れている。見えなくとも少女にはわかっていた。まるで指の間を通り抜けていく砂のようだ。少女の足という砂が海に掬われ青へとこぼれていく。足とは反対に腕はまだ水面を漂っていた。しかしこちらも形をとどめなくなってきていた。波が上に下に揺れるのに合わせて、指先から少しずつ広がっていく。こちらはほどけていく毛糸玉みたいだ。
 このままどこに向かうのか。海の底へと沈んでいくのだろうか。底に光は届かない。絶望があるのではなく、絶望も何もないから底は暗いのだろうか。何もないならきっと私も。
 疑問に耽っている彼女に突如影が差した。
 少女はゆるゆると目を開けてみる。まず見えたのは歪んだ青海波。顔はとうに水の下へ沈んでおり、彼女の視界を歪ませていた。次に見えたのは眩しい日差し。そして一人の人間。誰かいる。夏の日を背にしているから顔立ちまではわからない。泳いでいるというより水の上に座っているように少女からは見えた。小舟にでも乗っているのだろうか。
 その影が一際に歪む。見ていると少女は気づいた。いや、見えている。
 水面の向こうの誰かに、少女は微笑んだ。

「おい、ユウ」
 名を呼ばれて反射的に振り返る。こちらの肩を叩こうとしている友人と目が合った。行き場のない右手を宙ぶらりんに止めたまま、目は何かを咎めるように鋭い視線を送っていた。
「お前、何見てんだ?」
「え?」
 言われて彼、ユウは改めてそちらを向く。そこにあるのはただひたすらに広がる海面ばかり。目を凝らしてみるがどこを見ていたのかもうわからなかった。説明するには海はあまりにも広すぎる。
 地元の海水浴場から少し離れた人気のない海の上。友人の親類が木製ボートを持っていると聞いて二人で乗り合わせたのだ。特に理由もない、海で泳ぐだけでは飽き足らないからゆえの行動だった。
 どの辺を見たかは忘れたが見たものを忘れたわけではなかった。だんだんと沈んでいく一人の少女。体は先から消えていき透き通っていた。唯一鮮明に見えた顔。まるで眠っている穏やかな表情は、最後に自分を見て笑った。
 その少女ももういない。
 友人が表情を曇らせていることにユウは気づいた。自分の行動を不審に思っているのだろう。慌てて何でもないと手を振ってから彼の持っていたオールに手をかけた。
「そろそろ戻ろうぜ、腹減ってきた」
「あ? ああ、いいぜ、戻ったらコンビニ連れてってやるよ」
「えーコンビニ?」
「文句あるのかよ」
「もっと海に来た感ほしいんだけどなー」
 軽口を叩き合いながらもユウは頭の中のものを消すのに必死だった。それでもあの笑顔は消えそうにない。むしろ消そう消そうと思うほどはっきり浮かんでくるから困ったものだ。海に潜らなければ安全だと思っていたのに。顔には出さずに舌打ちする。普段から妙な類いには遭いやすいのだが何度経験しても慣れることがなかった。
 そういえば、とユウは思い出す。先生に言われたっけ、前日「友人と海に行ってきます」と報告したときにかけられた一言。
「海は本当によく出る」
 先生はどうしてそんなことを言ったのだろうか。あれは忠告で言っていなかったようにユウには思えた。あれはどちらかといえば同調だ。
 帰宅したら聞いてみようか。
「あ、戻ったら城作らねえ!? 砂の城!」
「高校生にもなって何言ってんだお前……」
 空元気で上げたユウの発言は友人の呆れ声で返されてしまった。彼はいつの間にか横に寝転んでいる。二人の頭上には高くまで突き抜けた青い空、膨らんだ入道雲。漕いでいるのは遠くまで広がる青い海。
 夏だ。夏の海と言ったら誰もが思い浮かべるであろう、夏の海。おかしなものは何もない。
 夏の風物詩を眺めながらユウは結局消せなかった少女の笑顔を思い浮かべていた。それこそ物心がついてないときから見えている。だからこそあれらの類は一辺倒ではないことも彼は知っていた。ただそこにいるもの、憎々しさを周囲に撒き散らすもの、望まれて初めて存在しうるもの……見たからと言って全部が全部脅威ではないのだ。
 そんなユウだからわかる。少女の笑顔に他意はなかった。悪意も善意もない。それどころか特段感情があったと思えなかった。例えるなら「すれ違いざま、たまたま目が合ったからとりあえず笑っておこう」という状況に近いだろう。
 笑顔の意味も先生なら教えてくれるかもしれない。彼がわからなくてもあのヒトなら知っているかもしれない。先生の家によくいるあのヒトなら。
 ユウは力いっぱいにオールを漕ぐ。不慣れなこともあって海を漕ぐのは難しく、少しでも集中が切れると波に捕まってしまいそうだ。オールの差し込まれた海面が白く泡波立つ。もう誰も浮かんでいない。
 沈み消えていきながら最後に笑った海の少女。ユウはなぜか映画で見た海底に潜るクジラを思い出していた。

――――

 クジラは海の潜り方を知らない。
 クジラは、海へとのぼっていくのである。


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サークル名:夜半すぎの郵便屋(URL
執筆者名:能西都

一言アピール
身に覚える感覚、感情には個人差があります。

こんにちは。いつもこんな話を書いている者です。
このお話では頒布予定の新刊から一人、ユウ君を登場させてみました。
新刊自体は不思議なことが起こってるのにグダグダ暮らしてる薄い本になります。よろしくお願いします。

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