陽炎立つ
「なー、ちょっと教えてほしーんだけど」
ぞんざいに呼ばれ、頬が引きつった。
それが人に教えを乞う態度か。苦言をすんでのところで飲み込んで、リフィジはペンを握る指を解く。彼はこちらの心の安寧を乱し、嵐を投げ込むことにかけては超一流だ。いちいち目くじらを立てていては、時間がいくらあっても足りない。
側に侍り、導き教え、どこへ出しても恥ずかしくない王子に仕立て上げよ、というのが真のあるじからの命だが、完遂にはほど遠く、十日ごとに送る報告にもことさらに書くことがない。便箋はいまだ白紙で、今回も空虚な報せをもたらすことになりそうだった。
無力感で喉が詰まり、どうして私をこんな暗愚の側仕えに任命なさって、兄には本国に残るようお命じになったのか、私が劣っているからかと泣き言を連ねたくなる。
何もかもすべてエドワルドの、この憎たらしいばかりの年少の主君のせいだ。
礼儀作法や時候の挨拶、大臣家や名門貴族らの紋章の暗記に関しては上の空なのに、地理や方言、名産品、風俗については書物を開いたが最後、読み終えるまで寝食までもが疎かになる。十二歳、遊びたい盛りの少年を閉じ込めて読書と知識の詰め込みを強要し、過剰な集中を求めるのは酷だと思うが、いくらなんでもむらがありすぎる。
「何ですか」
気を落ち着けてから振り向くと、先ほどまで敷物にだらしなく寝そべって頬杖をついていたはずのエドワルドは、身を起こして熱っぽく地図を見つめていた。
開け放した窓から海風が吹き込み、少年の赤毛を撫でてゆく。陽射しは痛いほどだが、この爽やかな風のお陰で過ごしやすい季節だ。
「ここなんだけど」
大人へと至る階段に足をかけたばかりの声は、高く頼りない。細い指は地図の西側、茫漠の海原を示していた。
「ここいらに、大きな島があるだろ。おれは遠くからしか見たことがないけど、地図に載らないほど小さくはないはずだ。この地図、おかしいんじゃないか」
まさか気づくとは思わなかった。椅子を降りてエドワルドの正面から地図を指す。
「ここが北大陸、こちらが南大陸。北大陸のように統一はなされておらず、数多の国がひしめきあっておりますね。両大陸間の海峡に浮かぶ島々を指して海峡群島と呼びます。いま私たちがいるのは海峡の西寄り、この島です」
「そのくらい知ってる」
目をつり上げる主君をおいて、書棚から抜いた本を並べると、不満を吐き出すべく尖っていたエドワルドの口がぽかりと開いた。
「南大陸のとある国の本です。こちらに、ほら」
「島がある!」
「エドワルド様がご覧になっていたのは北王国発行の地図です。島が地図に描かれていない理由を端的に申し上げると、国交がないからですね」
「国交がないからって地図から消すのか?」
野蛮な、とでも言いたげだった。
「南大陸にはかつて悪しきものが住んでいたと教わったでしょう。それらを見張るために島を置いたと。我々北王国と、かの島を含む南の国々では神話が違っているんですよ。南では、島は神の国への道標として崇拝の対象です。異国の信仰を、我々の祖先は許さなかった」
息をつく少年の眼差しはぼんやりと揺らいでいる。子ども向けの神話や地理の本をいくつか手渡すと、すぐさま開いて没頭してしまった。南大陸で刷られた書物だから、目新しかろう。
お茶でも用意してやるかと立ち上がる。ありがと、とぶっきらぼうな声を背中で聞いた。
エドワルドは西海の島に固執するようになった。
漁船や商船に同乗して島を間近で見ては嘆息し、南大陸から取り寄せた書物を読んでは唸って転がった。
「竜! リフ、竜って知ってるか。あの島にしか生息していないそうだぞ」
「空を飛ぶ竜に騎乗するって本当か? 戦場ではたいそう恐れられてるって。いいな、おれも乗ってみたい」
「我が国にも竜と竜使いを招いてはどうだ。寒いのは大丈夫かな。人が乗れる大きさなんだから、さぞかし大食らいなんだろうな。豚や羊を殖やしておかないと」
などと興奮して一人で喋っている。
地の果てに等しい海峡群島に流されたとはいえ、北王国の王子という立場は彼に多くをもたらした。けれども同時に、知識は限界を突きつけることにもなった。
「おれも竜の島に行ってみたい。何とかならないのか」
「我々の船が直接乗りつけると外交問題になりましょう。かの国と交流のある国へ一度お渡りになって、そこから再度海を越えるしか」
だよなあ、とエドワルドは燃える赤毛をかきむしる。この髪のせいで本土を追われた少年は、実際のところ名ばかりの王子に過ぎないことを重々理解していた。
正妃との間に二男二女をもうけ、複数抱えた側室にも多くの子を産ませ、さらには一時の戯れ、気まぐれであちこちに
一方で、王の姿形や出自は民らの関心を引くものではなかった。正統であろうがぽっと出であろうが、税を引き下げ、娯楽を規制せず、巨悪を罰して善政を布いてくれればそれでよいのだ。北国の民にとって、いかにして冬を越えるかに勝る問題はそうない。
エドワルドの母は流しの踊り子であったという。卑しい身分の母を持つ王子王女は他にも掃いて捨てるほどいるが、彼は奸婦の色として忌み嫌われる赤毛を譲り受けてしまった。民草が歯牙にもかけぬ要素だと知らぬはずもないのに、凶兆であると王妃に処刑されかけたところへ王女エリザベスが手を差し伸べ、王都から遠く離れた海峡群島の主に据えたのである。これで手打ちとせよ、と。
この海峡は南北大陸を行き来するためには必ず通らねばならぬ海路で、群島は交易の要衝と呼べる地だ。それがさほど重要視されず、流刑地のごとき扱いであるのは、第一に北王国の国力が十分で、南との交易を絶っても独立を維持できること、次に南の国々の政情が安定せずに交易が途切れがちであることが挙げられる。
そして何より、海峡群島そのものの悪評である。通行税をせしめ、呼吸するように恫喝、略奪を行う海賊どもの天下。無法地帯にして悪の巣窟、というのが本国での評判で、だから南からやってくる品は目玉が飛び出るほど高額で、お貴族さまの手にしか渡らぬのだと不満が続く。領主となったエドワルドが気にしている素振りはない。
不遇の王子付きとなった自らの身上を嘆くのは易いが、すべてはエリザベス殿下の御為。恩を売りつけたエドワルドと手駒であるリフィジを海賊島に送り込み、交易路を保てと言下に命じた、遠い未来を見はるかす王女の手足となって道を拓かんがためだ。
それなのに、この王子のなんと頼りないことか!
これまでに何度、海に突き落とそうと思ったか知れない。愚鈍で怠惰、課された責務を果たそうともせず、日々だらりと暮らす穀潰し。本国に残り、殿下のお側にある兄の高笑いが耳の中でこだまするようだった。
しかしごく稀に、エドワルドの眼はここではないどこかを見据えているように思われる。未知の竜の島に、予想だにしない像を結んでいるように感じられる。
かなたに視線を定め、爛々と燃え輝く翠玉は王女殿下とまったく同じ。注意を怠れば、たちまち炎に焼きつくされてしまうだろうことも、篝火に誘われる蛾のごとくに惹きつけられるのも。
「なーリフ、国交がないってのは、不可侵って意味じゃないよな。誰か、竜の国の内情を調べに遣れないかな。できれば長く」
「それは、侵略をお考えと受け取ってよろしいのですか」
エドワルドの見ているものが見えない。何を考えている。何を成そうとしている? 王女殿下に仇なすことか、それとも利となることか。
「人聞きの悪いことを言うなよ。いわくつきの国のようだし、内情は押さえておくべきだろ。リフィジ、これは命令だ。姉上から使えるやつを預かってるんだろう。南大陸沿岸と竜の国を見張れ。それから、間諜を継続できるように近隣の島で人材を育てるんだ」
ついこの前まできんきんと耳に刺さる声だったのが、低く掠れて凄みを帯びた。あるじと同じ猛禽の眼をぎらつかせ、少年はリフィジを睥睨する。
「両大陸から船を招いて市を立て、ここでなら特別に税率を下げて取り引きできるようにする。海賊どもに渡りをつけろ。分け前をくれてやるから、協力せよとな」
「それで、エドワルド様は何をなさるおつもりなんです。海賊の王にでもおなりになる?」
普段ならばこんな出過ぎたことは決して口にしない。しかし、彼の獰猛さと野心は十分にあるじの脅威となりえた。あるいは睨み合い、隙あらば喉笛を切り裂かんと牙をちらつかせることで、互いを高めあうことも可能かもしれない。むしろ、殿下はそれを望んでおられるのでは。兆した直感に背筋が粟立つ。
「海賊の王?」
翠の眼をしばたたき、少年は白い歯を見せた。
「海と空を統べるんだよ! 海をわたる船と天を翔る竜があれば不可能じゃない。竜の国にも姫君の一人や二人はいるだろう、まとめて攫いに行くぞ。……安心しろ、お前に恥はかかせない。いや、姉上の覚えもめでたくなって、あのいけ好かねー兄貴を見返してやれるだろうよ」
――ああ、エリザベス様。リフィジは嘆息する。
あなたの目は確かだった。こうなることを見越しておられた。不遇に腐るたまではないと。御しきれぬ大物になりうる原石だと。
ならば、私は。
素早く考えを巡らせる。しかし、足りない。ヒトもモノもカネも、ここにあるものは質、量ともに乏しく、薄っぺらだ。ならば育て蓄えれば良い。そのための自分だ。ようやく働けるのだ。
内心の歓喜には厳重に蓋をして、頬を紅潮させている主君を見遣る。
「そういうことは、泳げるようになってからおっしゃってください」
サークル名:灰青(URL)
執筆者名:凪野基一言アピール
理屈っぽいファンタジー、文系SFを書いています。二本めの投稿は長編「双つ海に炎を奏で」のスピンオフでした。本編はこの約15年後、エドワルドと竜の国の王女の政略結婚から始まります。ピピピと来た方はwebカタログをご覧くださいませ。エリザベスはキャラログさんに登場しますのでそちらも併せてどうぞ。