かなしからずやそらのあお

 海にうかぶしろのなかにわたしは漂っている。
 波をしろく搔きわけながらすすむ船は浪とおなじぐらいにしろく、おおきく、しろのように堅ろうに見えて、波間の木の葉のように頼りなげ。けれども波をいくつもつつんだ浪のようにひろく、あかるくかるく、人々をつつむ。船では人々はつつまれている。海に。白に、空を映した碧に。日常まとったいろいろのいろをぬいで、まとうものはしろとあお。あわい衣に人々の輪郭がうすぼんやりと透ける。わたしは思う。童女のようにあどけなく、旅は人々を素直にする。
 目の前の水槽の人魚がぷかり、と口から泡をはいた。
「おや」
 耳に慣れた声が頭の上に降った。
「今日もここにいるのかい。この席がお気に入りだね。もっとも僕はそのおかげで君に会えた。嬉しいね」
 世界一周を謳う大型客船、そのメインダイニングでくつろぐわたしに、男は歯を白く光らせて笑った。軽薄な男。かわいいレイラ、君の頬は白磁のよう、くちびるは熟れた桃のよう、とひとしきり口にのせる男にはわたしは飽き飽きしていて、けれどこの日は朗らかな声がわたしの気を引いた。
「熟れた桃、というより色づいた紅葉のように思えるけれど」
「なにを言うんだショウコ、彼女の可憐さが見えないのかい?」
「可憐? あなたが思うより彼女はレディなんじゃなくて?」
「ショウコ、君は彼女に会ったのは今がはじめてだろ。わかったみたいに」
「わからないほうがどうかしてるわ。男ってほんとどうしようもないわね」
 辛辣な言葉とはうらはらに、あらわれた女性はほがらかで玲瓏な海のように明るく言った。
「彼女は“小さな女の子”なんかじゃなくて立派なレディよ。たしかにすごく可愛い少女だけれど――ビスクの頬に、林檎のくちびる、瞳は海のロイヤルブルー、真珠の爪先――すごいわ、あなた、完璧なのね」
「だからそう言ってるだろう、ショウコ」
 男は憤慨した口調で言った。
「彼女はかわいい女の子に決まってるさ。もちろん君も最高に綺麗だけれどね。それよりいい加減僕に紹介させておくれよ。レイラ、こちらはショウコ・フジミヤ。日本でのビジネスパートナー。今日からこの船に招待した。ショウコ、こっちは――」
「レイラよ、ミズ・フジミヤ」
 長ったらしい男の台詞を途中でバッサリ奪う。男の軽口に眉をあげて心情を示していたショウコは愉快そうに笑った。
「やるわね、レディ・レイラ。ふふ、いいのよ、ミズだなんて。ショウコで十分。あなたのこともレイラでよろしいかしら?」
「よろしいわ、ショウコ」
「わたしの娘とその従弟の男の子もこの船に乗っているの。分別がついてもいい年なんだけれど、子どものことだから、あなたの世界の邪魔をしてしまうかもしれないわ。許して頂戴ね?」
「いいわ」
 わたしはうなずいた。
「子どものことだもの」
 十分小さい子どもの姿のわたしに言われ、やっぱりショウコは愉快そうに笑んだ。隣では自称ビジネスパートナーが意味不明と天を仰いでいる。失礼な男。目の前のものを素直に賞讃できる性格はすばらしく、だからアンティーク家具の商社などしているのだろうけれど、そのうち彼のビジネスはショウコに手綱を握られるのではないかといらぬことが思われた。わたしやカレルに必要なのはその性格だから、べつにいいのだけど。
「心配しなくても、若い人もたくさん乗ってるわ。こういった船にはめずらしいくらいよ。とくに今はね。もともとやかましいのが乗ってるんだもの」
「もともと?」
「そうよ。水槽の人魚にだって喧嘩ふっかけるような子よ。そういう子こそオンナノコだわ」
 ツンと言い捨てるとショウコは人魚のくだりに不思議そうな顔をしていた。乗客同士の噂話なんてはしたないけれど、ショウコはそういった機微がわからない女性には見えなかった。そのうちわかるわと言い置いて、ついでに、と指を折って数える。アパレルの仕事をしているらしい男の子と女の子、その上司。仕事の研修で来たらしい男女。そしてもっとたくさんの、海のしろとあおに染まった旅の道連れ。
「みんな素直で、かわいいものだわ。それから、素直だけれど穏やか過ぎる人もいるわね。陸にあがると溺れてしまうから、ずうっとこの船で暮らしてるわ」
 ダイニングに据え付けられた水槽をつつく。人魚みたいよね。水槽のなかで尾びれをくねらせて、人魚はじいっとこちらを見つめてくる。この人魚は飼われる人魚の「みんな」と暮らせなかった。人魚は海で暮らすものだから、海に浮かぶこの船ではいろいろのいろをぬげなかったのかしら。
「辛口だね、お嬢さん。君の彼氏も大概穏やかにすぎるよ」
「彼氏? 隅に置けないわね」
 ショウコはおもしろそうに言い、ウェイターが運んできたドリンクにささったストローをくわえた。男はバーテンのいるカウンターまでいくつもりだったらしいのに、彼女はすっかりくつろいでいる。ショウコの問いに男はいきおいづいた。
「そうだよショウコ、かわいい彼女と旅してるしあわせなヤツさ。許せないが、腕がいい。職人としてうちに来いっていうのに、首を縦にふらないんだ。やっぱり許せないな」
「カレルは彼氏なんかじゃないわ。ついでに職人でもないわよ。フリオ、いくら言ってもあなたは覚えられないみたいだけど、カレルは修復士よ。職人だけど、職人じゃないわ。承諾しないのは修行の旅の最中だからよ。いずれ完全になるわ。半端なこと言うと許さないわよ」
「おお、こわいこわい。でもいくら言っても聞かないのは彼も同じだろ。船に乗る客の修理屋ならやってもいいというからしばらく乗せてるのに、もう修業は十分といくら説得してもうんと言わない。船に乗せてる間に引っ張ろうと思ったのに」
「わかりやすすぎるわ、あなたの魂胆。それで? その彼氏はそんなに穏やかなの?」
「カレルはおおらかなのよ。穏やかとは紙一重でしょう」
 旅は人を素直にする。子どものようにあどけなく、日常のいろをぬぐ。非日常にしろく染まる。輪郭を融かして、その人がとろとろ流れ出る。
 では、カレルは?
「カレルっていうのね。カレル、なに?」
「エッラーリンクよ」
「カレル・エッラーリンクね。修行して、いずれ素晴らしい修復士になるのね。覚えておくわ」
 ショウコはゆったり足を組み、微笑んで言った。覚えておくわ、の言葉に胸の底がほのかにあかるくなる。ショウコは素直になっても、あかるく、力強い種類の人間だった。カレルはわたしの彼氏ではないし、わたしは彼の彼女じゃない。けれど彼はわたしの旅のみちづれで、わたしは彼の旅のみちづれ。旅こそがわたしたちで、わたしたちはともに日々旅をする。わたしは彼の旅の成功を願ってやまない。旅して過ごす日常では周囲は極彩色に、パステルに、四季折々に色づいていて、彼とわたしばかりが仄白い。彼の前では訪れ人ばかりが日常の衣を脱いでいく。彼はおおらかに、冬にさす日差しのようにほのじろく微笑んで許す。
 旅の成就をのぞむわたしも彼に許されている。
「カレルは、ここでは靴を直してるわ」
 壊れたもの、こわれそうなものを、彼はふたたびつくることで直してくれる。それぞれが手にした願いを。それらは勝手で、泥にまみれ、素直なほど色づいて、うつくしい。
 海にうかぶしろのなかで漂っている水槽のなかの人魚、しばられた羽をのばすひと、陸に帰れないひと、それぞれに。ショウコにむかってわたしは微笑んだ。
「降りるときには、あたらしくして、ここから出て行ってね」
 あおい海に浮かぶただひとひらのしろ、日を非をつなぐこの旅の船から。


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サークル名:三日月パンと星降るふくろう(URL
執筆者名:文野華影

一言アピール
サークル<三日月パンと星降るふくろう>で不定期連載している短編連作の一部。様々な人々が乗り合わせる大型客船で紡がれるひとときを集めた『海の寄り道』に付属して配布した短編です。

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