おにおとめ

 女は寒いときにそうするように、胸の前で腕を交差させ、自らをかき抱いた。袖の布が千切れそうなほど指を喰い込ませ、小刻みに震えてさえいた。やがて椅子に座っていられなくなって、カーペットに倒れ込んだ。半身を打った衝撃のえずきに誘われ血混じりの吐瀉物が流れ出た。背を丸め、苦しげに何度でも呻いた。
 アカネには声を発する口がない。助け起こす腕もない。だから、しだいに生気を失ってゆく女を見降ろすことしかできなかった。
(ナゼ)
 草の言葉でアカネは問いかけた。女に届かぬことは承知の上で、床に転がった透かし彫りの枡を見ながら。
(ヨウ、ナゼ飲ンダ、カモシビトノ酒ヲ)

 故郷を発つ朝、女は小さな素焼きの鉢にアカネを移して旅の連れとした。借りた部屋の日当たりは世辞にも良いとは言えなかったが、適度な水やりだけで枯れることはなかった。染料に使われる茜とは全くの別種だが、草冠に鬼と書いてあかねと読むのだと名づけられた。
 女の名はヨウと言う。日々の慰みに、ヨウが窓辺で話したことは、すべてアカネの中に残っている。
 ヨウがカモを見つけたのは、駅に直結した百貨店の地下だった。匂いで誘う総菜エリアもきらきらとした洋菓子エリアも抜けてこれまで近寄ったことのない壁沿いの酒売り場へ足を踏み入れた時、
「よろしければ試飲しませんか」
 紺の法被に前掛けを占めた男が話しかけてきた。
 ヨウは日本酒を嗜まない。味がどうというよりは飲まず嫌いである。親戚が体質に合わない酒で酷い目に遭った話はトラウマであり、一滴とて酒を置かない実家を離れても飲みたいとは思わなかった。ビラ配りをかわすような会釈で通り過ぎて、一升瓶がずらりと並ぶ棚の前にヨウは立った。なんと種類の多いことだろう。感嘆というよりも悲鳴に近いため息が漏れる。吟醸と大吟醸なら値段が高い大吟醸のほうがおいしいのだろうか、純米とわざわざ書くからには、純米ではないお酒には何が入っているのだろう。辛口とはカレーでもあるまいし、ラベルが今どきなスタイリッシュよりは渋い筆文字のほうが老舗なのかしら。
 洋酒よりはわかるだろうと思った自分が甘かった。ヨウはちらりと周囲を見て店員を探した。エプロン姿の女性は老紳士の接客、レジは並んでいて横入りできる雰囲気でもない。
 観察の結果、先ほどの男は百貨店の人間ではないらしい。今日限定のイベントとして酒蔵から出張中と近くのポスターに書かれていた。上の開いた冷蔵庫に蔵元の酒瓶を数本並べて、道行く人に試飲を勧めている。
 瞬きをしてから、ヨウは少しの勇気を出して男に話しかけた。
「あの」
「はい。何か気になるお酒はありましたか」
 迎えたやわらかい声と自分に近そうな年齢がヨウに先を続けさせる。
「もし、もしよければ相談に乗っていただけませんか。私、日本酒全然わからなくて。お世話になった人に贈りたいんです」
 今週退職する同僚にプレゼントしようということになり、その調達役を押し付けられたのだ。
「喜んで。その人が普段飲むお酒はわかりますか」
 ヨウが飲み会や日頃の雑談の記憶を辿り、それをか細い手がかりとして男がいくつかの酒を提案した。本当はうちのを売らないと怒られちゃうんだけどと小声になりながらも、各酒の特徴を、知識のないヨウにもわかりやすく説明してくれたおかげで、これならという一本に決めることができた。
「ありがとうございました」
 お辞儀をしたそこで別れればよかったのだが、ついまじまじと見上げてしまい、男もヨウの視線に気づいた。
「あ、見えますか。この格好だと帽子をかぶるわけにもいかなくて」
 両手を広げて法被の袖を揺らしてみせてから、男は動揺した様子もなく頭に手をやった。そこには黒い二本のツノが生えていた。
「見える方に会ったのは久しぶりだな」
「わ、私」
 ヨウは無意識に自分のかぶっていた帽子の端を深く直した。
「なにか?」
「……私、この沿線のカフェで働いてるんです。もし機会があれば」
 パスケースに入れてあったショップカードを差し出すと、ツノの男は「今度お茶しに行きますね」と人懐っこく目を細めてそれを受け取った。

 数週間後、ヨウの働く店を訪れた男は、珈琲とベーグルサンドを注文するついでのように、カモと名乗った。カモはそこに流れる時間まで味わうように丁寧に食べ終えると、器を下げるヨウに言った。
「良い店ですね、シンプルだけど落ち着いた雰囲気だし、飲み物もご飯もおいしい」
「ありがとうございます」
「なにより、制服でキャスケットをかぶれるのがヨウさんにちょうどいい」
「え?」
「あなたもあるでしょう、ツノ」
 そこからカモとヨウの距離は縮まった。月に一、二度待ち合わせをして、気取らぬ食事をしながら言葉を交わし、いくつもの共通点を発見する。ツノのせいで受けてきた傷について、生まれついて鬼だったことの悲しみについて、たとえ何十年を経ても話す日など来ないはずだった絡まりがほどかれる。揃いの帽子を買って帰る日もあった。友人になったのだ。
 こんなエピソードがあった。その日のヨウは調子が悪かった。体の不具合というよりは、理由もなく心が晴れない。気圧なのかホルモンの問題なのか、そういうことはたまにある。職場でつまらぬミスをしたし、カモと合流してからも、何を食べたい気分かどんな店がよいか、訊かれて答えられなかった。ありふれたチェーン店でいつものようなシェアもせず、会話が微妙に噛み合わなくなることを申し訳なく思いながらも、きちんとふるまうことができなかった。だから、高架下の駐車場を通り抜けて駅に向かいながら、「あのさ、ヨウ」と、カモが足を止めた時に覚悟した。うんざりされたのだろう。面倒な女だと気づかれてしまった。
「蔵の人からもらったんだ」
 カモが取り出したのは有名な洋菓子屋のロゴが入った小さな包みだった。
「ありがとう、家で食べるね」
「今食べない? 僕も食べるから」
 断ることもできた提案にヨウは従い、ほんのり焼き目のついた玉子色を咀嚼した瞬間「あっ」と口を押えた。
「すごい、しっくり……チーズケーキが食べたいなんて全然思いつかなかったのに、私に今必要だったのはこれだったんだって気づかされるくらいしっくりきた」
「よかった。じゃあ、今日はもうこれを食べて寝てしまいなさい」
 チーズそのものを食べているような濃厚な菓子は、カモという外からもたらされ、思いもよらずヨウの鬱屈を慰めた。
「アカネ、私ツノがあってよかったと初めて思ったかもしれない」
 八重歯を見せて笑うようになったヨウは、鬼の里にいたころよりも綺麗だとアカネは見惚れた。

 酒造りを学ぶために上京していたカモが、鬼殺しの酒を醸すかもしかだと聞かされたのはいつのことだっただろう。
 急にふるさとのA県に帰ることになったと呼び出された日、帰宅したヨウは放心したようにアカネに語った。
 鬼とかもしかの因縁は昔話のように言い伝えられてきた。人に交じり街で暮らすようになった現代において、しかも自分の身に起きるとは思っていなかっただけで。いや違う、気づかないふりをしていた、カモにはツノがあるけれど鬼ではなかったから。
「でも、葉桜の頃、一緒に歩いた雨上がりの遊歩道で見つけたの。桜の古木の股に、どこから根付いたのか楓の枝が伸びていた。二人ですごいねってしばらく眺めた。種族が違っても色づく季節が違っても、同じように風に葉を揺らして、寄り添うことはできるんだって心が確かに温かくなったのに」
 寒い冬をヨウはこれまで通り一人で過ごした。心細くなると布団の上で、デニム地にチェックの布が差し込まれた帽子を握りしめたりさすったりを繰り返していた。
 初春の流行り風邪を移されたのだろう。高熱を出した三晩目、ヨウは朦朧としながらどこかに電話をかけ、そして意識を失った。真夜中に来訪者があったことをアカネは感じたが、できることは何もなかった。
 朝の光が入るとカモとヨウが互いのツノをくつけるように向き合い、眠っている姿があった。ヨウの左手はカモの袖をしっかりと握っていた。病によって外れた我慢、その呼び出しに、カモがA県から駆け付けたのだった。
 熱の下がったヨウは、すっきりとした表情で「最後にツノこつんできてよかった」と相好を崩した。ツノこつんは家族などの親しい間柄で行う仕草の幼児語である。二人は数時間、楽しそうに会話を続け、やがてカモは旅立った。部屋にはラベルのない濃緑の四合瓶と透明の枡だけが残された。

(ナゼ)
「私は、カモさんの友達だから。これは、カモさんが作った、初めてのお酒だから」
 呼吸は途切れつつであったが、ヨウは意外にもはっきりと答えた。
「気づいてる? アカネ、お前、花が咲いたのよ。里でもずっと咲かなかったのに」
 かもしびとが現れた夜、アカネにしたことを思い出す。水ではなく持参した酒で土を湿らせたのだ。根から吸い上げたそれは茎や葉を廻り、隠されていた芯を熱くした。
「きれいだよ、赤いきれいな花。だから、大丈夫だって信じられた」
 汗で張り付いた前髪の奥の、瞳に力が戻ってきている。変質した体を確かめるようにヨウがゆっくりと起き上がる。黒髪を滑るように何かが落ちた。象牙色の二本のツノだった。
 かつて鬼だった乙女はそれを握りしめて、静かに涙を流した。


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サークル名:三日月パンと星降るふくろう(URL
執筆者名:雲形ひじき

一言アピール
日本酒を舐めて浮かんだ場面を本にするペロリストです。この話は第6回Text-Revolutionsのアンソロ「祭」に提出した「かもしびと」に関連していますのでもしよければ合わせてお楽しみください。
https://text-revolutions.com/event/archives/6311

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