廃園のマグノリア

 冬の名残に冴えていた青が少しずつ鈍くなっていく空を背景に咲く、淡い白のマグノリア。流れる雲よりずっとやさしいその色は、いっせいに蘭燈に光を灯したように、エリクの青色の瞳に映った。
「うわ、これはみごとだな……」
 暦の上では冬から春への境となる日だが、周囲の丘は未だ耕される気配のない土が広がっている。そのなかで、齢ゆうに百年を超えているだろう樹が、慎ましやかな線を描く花を着けている姿は、何よりもあざやかだ。
「ばーちゃん家の庭のより、こっちのほうがデカくて長生きみたいだけど」
 かすかに汗の滲むシャツを風にはためかせ、エリクは滑り止めのしっかり効いた、頑丈な革靴を黒土にのめり込ませる。そして、丘を登り切ったエリクが、真っ赤な髪をかき上げざま、改めて花を見上げようとした──そのときだった。
「──あら、こんな辺鄙なところに訪れる方がいるなんて」
 かけられた、やさしい声ひとつ。
 エリクが目にしたのは、樹のもとに佇む、緑色の目を細めている老婦人──否、老嬢というほうがしっくりくる女性だった。いささか時代がかったモスグリーンのドレスと、唐草文様に彩られた鋳物作りの青鈍色のテーブルと象牙色のティーセットが、白く慎ましやかな花のもと、品良く調和している。
「あ、すみません! お茶の時間をお邪魔してしまったようで」
「いえいえ……あの、あなたはどうしてまた、こんなところに?」
 小首を傾げる老嬢に、エリクは自分が首都で見習い庭師をしていること、父でもある親方から、今度名のある品評会に出てみないかと誘われたことを話し、
「そこで、有名な植物園や昔の貴族が仕立てた庭園を見て回るなか、宿屋の老店主が、この辺にも有力な貴族が手塩にかけて育てた庭園がある、って地図もくれたんで、途中下車してみた──までは良かったんだけど」
 頭を掻くと、老嬢はくす、と少女めいた笑みを浮かべる。
「道に迷ってしまったのかしら?」
「地図が古いのかな? でも、こんなみごとなマグノリアに出逢えたから、まあ、いいかなって」
「マグノリアはお好き?」
「はい、アデレイドばーちゃん……じゃなかった、祖母の家の庭で、じーちゃん……じゃなくて、祖父に抱っこされて、初めて見たときからずっと好きなんです。雲とか雪とか、きれいな白を集めてできているようなところが」
 にっこり笑うエリクに、老嬢もやさしく微笑みを返すと、
「疲れたでしょう? お茶でもいかが?」
 やわらかい声音で席を勧める。
「え、でも」
 エリクがテープルの上を見回すと、象牙色の器もお菓子もふたつずつある。
「どなたか先約があるのでは……」
「いいのよ。この樹の下で過ごすときにはいつも、お茶もお菓子も二人分用意してしまうの──もう、癖になって染みついているのね」
 よく見れば、手入れの行き届いたカップではあるけれど、経た年月がしっとりと沈んでいる。象牙色の由来はここか、と思うほど、軽々に手を伸ばせずに、
「その……たいせつなひとの分だとしたら、オ……僕なんかがいただいてしまうのは」
 頬染めて、けして小柄ではない身体をエリクはもじもじとちぢこませる。そんな彼を見上げ、小首をかしげる老嬢のたたずまいに、果たしてこのひとに愛された男性はどんなだろうと、ついついロマンスの所在を探してしまうエリク。
 それに気づいたらしい老嬢は──往時を忍ばせるはなやかさをにじませた、すこし寂しそうな微笑みを浮かべていた。
「この白いマグノリアのようにまっさらで、一点の迷いもなく、誰からも祝福される恋……そんな恋ができていたら、どんなにかよかったのでしょうけれど」
 よろしければ、昔語りを聞いていただけませんか?
 無音の願いを、老嬢の緑色の瞳の奥に感じたエリクは、彼女が指し示した椅子に、そっと、腰を下ろしていた。

「わたしの名は、タマラといいます。今はこのマグノリアしかありませんが、わたしの幼い頃は、濃淡とり混ぜた色も美しく咲き誇る花園が、丘の向こうまで広がっていました」
 タマラの遠いまなざしが、花影ひとつない土へと向く。
「そしてその花園には、姉のようなひとが、何人もいました」
 その物言いに訝しむエリクに、タマラはさりげなく、わたしは赤ちゃんのときに、花園の管理者に拾われたの、とだけ告げる。
「春になると、わたしたちは手を取り合い、色あざやかに咲く花に囲まれ、楽師たちの奏でる曲に合わせ、輪になって踊りました──メヌエットにワルツ、陽気であかるい旋律に、笑いさざめく少女たち……」
 タマラの脳裏には、そのときのメロディが鳴り響いているのだろう。ドレスの下で拍を取る足取りを感じ、僭越ながらも微笑ましく思いつつ、エリクはカップに手を伸ばす。ほんのり紅味を帯びた琥珀色は、やけにあまく、唇に感じられた。
「ですが、彼女たちはやがて、このマグノリアよりもずっとずっと白いドレスをまとい、花園を去っていきました。そしてわたしが10歳になったころには、とうとう少女はふたりきりになりました──末尾を『ラ』で揃えられた、花園住まいの少女たちにつけられた名を嫌い、『私のことは、ただ姉とだけ呼んで』と言い張った、美しい金の髪と意志の強い青の目が忘れられない、最愛のお姉さまというべきひとと」
 目を細めたタマラの横顔に、はらりと白い花弁がひとひら、降りかかる。その面差しは──ただひたすらな恋を知った、少女めいたせつなさをたたえていた。
「末のふたりとなったわたしたちは、庭に咲く花々の手入れをはじめました。ことにこのマグノリアの手入れに熱心になったわたしたちを、そんなことをしたら手が荒れてしまうと、庭の管理者はしかめ面で止めましたが、お姉さまは聞く耳など持ちませんでした。
 ──そう、この花園は、かつてこの地を差配していた貴族一門の男たちの愛妾を育てるために在ったのです」
 えっ、と声を上げかけたエリクの代わりに、カップとソーサーががちゃりと激しく音を立てる。
「ことあるごとにお姉さまは、わたしにこう言いました。
 『私はあなたとふたり、この花園の季節を彩る花を育て、眺めながら暮らすの──約束よ』
 まっさらに咲いたマグノリアのもとで、そう言われたときに、わたしは胸いっぱいに広がったあまい想いに浮かされるように、ただ、深く深く頷きいていました。
 お姉さまとふたり、花で季節を数えて過ごす。そんなしあわせな未来の訪れを、わたしは何ひとつ疑いもしませんでした」
 あまい追憶に身を浸すタマラの、緑色の瞳が揺れる。かなしみのヴェールが彼女の視界を覆っていく気配に、エリクはただ身を固め、彼女の閉ざした唇が再び開くのを待った。
「……マグノリアのもとで誓ったあの日から数えて、三度目の春が巡ってきたときのことでした」
 はらり、と虫に喰われた花片が落ちてきたのをしおに、タマラの唇が動く。
「燃えるような赤毛が目を引く旅の青年が、何も知らず、この花園に足を踏み入れたのです。道に迷ってしまって、と破顔一笑したそのひとと、お姉さまは──悪戯な運命神が紡ぎ、結び合った赤い糸を手繰り寄せるように、恋に落ちていました。
 わたしたちの素性を知らない青年は、お姉さまに熱烈な恋心をまっすぐにぶつけてきました。そして、彼の若さに裏打ちされた、真情の籠もった想いに、お姉さまは……彼とふたり、手に手を取り合って、この花園を出て行ってしまったのです。
 このマグノリアのもとで、熱いくちづけを交わし合うのを、わたしに見られていたことなんて、知らないまま」
 溜息ひとつつき、タマラは紅茶を傾ける。言葉をかけられぬまま、エリクもそれに倣ったが──この苦みはしばらく舌先に留まりそうな、そんな気がした。
「こうして花園にひとり残されてしまったわたしですが、いよいよ妙齢となった頃、少女たちを思うまま手折ってきたかの貴族の一門は、どうした弾みか没落してしまったのです」
「……天罰ですかね」
「わたしもそう思いました、いい気味、なんてね」
 タマラが少しイタズラっぽく、目を細める。
「けれど、ほんとうに大変だったのはそこからでした。途方に暮れるばかりで役に立たない管理人に成り代わり、わたしは故郷とも言うべきこの庭を護ろうと躍起になりました。
 けれど、世間知らずの娘に、いったい何ができたでしょうか。小狡い商人に言われるがまま、あちらの区画を売り、こちらの区画を手放して──わたしのもとに残ったのは、マグノリアの咲くこの一角だけでした」
 そこまで話すと、タマラは目を伏せる。しっとりとした長い睫毛が震え、傾く陽光に照らされて白さを増す。
 ……ああ、このひとは。
 そのひとを今もなお慕う分だけ、この樹をたいせつにしてきたのだ──巻き戻すことのかなわない時間と追憶と知りながら、手放せずに。
「──……お茶、ごちそうさまでした」
 タマラの追懐を壊さぬように、そっと立ち去ろうとしたエリクに、
「待って、これを」
 彼女は卓上のアーモンドケーキを、手早く白いナプキンに包んで渡してきた。
「わたしが焼いたものだけど、もし良かったら旅のお伴に、どうぞ」

「それにしても、みごとなマグノリアと……不思議なひとだったな」
 ようやくつかまえた機関車の固い座席に腰を下ろし、エリクはタマラに渡された包みを開く。香ばしく煎られたアーモンドスライスにコーティングされたケーキをひとくち齧ると──かつん、と奥歯に何かが当たった。
「えっ?!」
 歯でも欠けたか、とエリクは慌てて口を開け、取り出したのは、白木蓮をかたち取ったような小さな陶器だった。シンプルな細工でありながら、それでも花片にほんのり一滴の紅をにじませたつくりは、花への惜しみない愛が感じられる。
「フェーヴ……オレの御護りは白いマグノリア、か」
 なかなかいいじゃん、と笑ったエリクは夕映えの窓外へと視線を転じる──来年のマグノリアが咲く頃、あの樹のもとに再び訪れようか、そんなことを考えながら。

「初めて目にした時から、すぐに解ったわ。かれが、お姉さまとあのひとの血筋を、しっかり色濃く受け継いでいるひとだって。
……あのとき恨んだ運命の神様は、ずいぶんと茶目っ気たっぷりなイタズラもなさるものね」
 たそがれ迫る樹のもとで、タマラはうっとりと、夢見るように囁く。
「ねえ、お姉さま? わたし、お姉さまがこの庭を彼と立ち去るときに、うんとたくさん言ってやりたいことがあったの。
 でも……エリクさんとのお茶会は、ほんとうにひととき、ただこころから楽めたわ。お姉さまとわたし、ふたりでたいせつにしてきたマグノリアに相応しからぬ、恨みつらみを口にすることもなしに……」
 伏せた目をもう一度大きく見開き、緑の瞳に花の影を映しながら、タマラは声を震わせる。
「──よくできました、って、ほめてくださる? 今でもこの世界でいっとうだいすきで、誰よりもいとおしい……アデレイドお姉さま」
 沈む日に縁取られた白いマグノリアのもと、タマラは静かに微笑むと、しんから満足したようにそっと目を閉じていた。


Webanthcircle
サークル名:絲桐謡俗(URL
執筆者名:一福千遥

一言アピール
『絲桐謡俗』は一福千遥の個人創作サークルです。洋の東西を問わず、あまくせつない恋愛物語や、大通りをひとつ逸れた路に迷ったような、すこし不思議な物語を書いています。いささかなりと気が向かれましたら、どうぞお気軽にお立ち寄りください。

Webanthimp

この作品の感想で一番多いのはしんみり…です!
この作品を読んでどう感じたか押してね♡ 花きれいって思ったら「満開!」でお願いします!
  • しんみり… 
  • しみじみ 
  • 切ない 
  • 満開! 
  • 泣ける 
  • ゾクゾク 
  • ロマンチック 
  • かわゆい! 
  • 胸熱! 
  • 怖い… 
  • ごちそうさまでした 
  • 楽しい☆ 
  • ほのぼの 
  • ほっこり 
  • 笑った 
  • 感動! 
  • うきうき♡ 
  • ドキドキ 
  • キュン♡ 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

検索

テキストビュー設定